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(2023:その 4) みかぐらうた十下り目解釈 やまいの元はこころから

2023年8月10日の部内教会での神殿講話予定の原稿です。
病気になるのは自己責任で、神様からの罰でしょうか?
私はそうは思いません。
この世は、神様の作られたアミューズメントパークです。
そこで、この自分の体というアトラクションに乗って、陽気ぐらしゲームをしているのです。
大きな病気になるというのは、絶叫度の高いアトラクションに乗っているようなものです。
生まれてくる時に、ご自分で選ばれたアトラクションですから、その病気には大きな意味があると思います。
決して、病気は罪や罰ではなく、たましいを浄化させるための重要なツールだと思います。

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(2023:その 4) みかぐらうた十下り目解釈

本日は、みかぐらうた十下り目解釈についてお話をしたいと思います。(かしわ手)

 天理教では病気になるとそれが神様からのおしらせと良く教えていただきます。こころのほこりを積んでいんねんとなり、それが原因で病気になるとも教えらえます。いんねんを自覚してこころのほこりをはらえば、病気は治るとも教えられます。

 私自身もこころの病となって苦しみもがきましたので、このことは十分に考えてきたことでもあります。
確かに一般論として、病気になった人がそれを前向きに捉えて、
「なんで病気になったのか?」
「自分のこころづかいに悪いところはなかったか?」
と今までの自分の行いを深く反省して、そのことによりこころが落ち着き、こころがきれいになるきっかけになる場合も多々あるかと思います。
それはそれでいいことかと思います。

 しかし、その反対の心理的反応として病気になったことはすべては自分の行いが悪いせいであると深く思い込んでしまう場合もあります。
「自分の行いが悪いから神様から罰をもらっているのだ。」
「病気になったのは自業自得なのだ。」
と、自分で自分を責める思考回路になるとそれは問題だと思います。
 
 大きい病気をした場合はどんな方でも当然落ち込みますし、酷い場合は病気を苦にすることを発端としてうつ状態になる場合も多々あります。うつ状態になった際になる妄想の一つに罪業妄想というものがあります。これは、病気になったことは自分の日頃の行いが悪いから神様から罰を受けているのだと深く思い込み、自分で自分を責め、さらに精神状態が悪化する妄想です。
この状態になると病的にかなり危ない状態になります。
酷い場合はうつ状態が悪化して自殺されることもあります。

 こういった精神状態の方にいんねん自覚のときわけをすると、更にご本人を追い込んでいきます。天理教信者の方がいんねん自覚のときわけを自分自身の事として考えるのならばまだいいですが、病気になられている方に対して他者が言う場合は相手の方の精神状態に十分に注意し、上から目線で話して精神的に追い込むのではなく、相手に寄り添うことを基本として対応する必要があるかと思います。

 神様は人間が陽気遊山でこの人生を楽しんでいることを共に見たいと思われて九億九万九千九百九十九年という長い年月をかけて人間を創造され、そうやってやっとこの世に誕生した人間達を今じっと見守られています。
その人間達が神様の想いが分らずに、自分勝手に考え違いをして自分で自分を不幸にしている場合は、それが不憫でしょうがないと涙されているだけではないかと私は思っています。
神様は私達人間に、
「こういう考え方・行い方をしたら幸せを感じる人生を送ることができるよ。」
と教えられたいだけではないかと思うのです。
 
 さて、ここで冒頭のみかぐらうたの十下り目についてのお話をしたいと思います。
皆さんは、そうは言ってもみかぐらうたの十下り目では、
やまいの元はこころからと神様は言っているじゃないですか?」
「だから病気になるのは、病気になった人のこころが悪いからで自己責任じゃないですか?」
と思われているかもしれません。
私も以前はそう思っている時期もありました。
でも、一方で神様とはそんなに残酷に人間を突き放すようなことを言う厳しい存在なのだろうかと以前からずっと悩んでいました。
しかし、天理教教会長で修養科一期講師もされていたやんぴ師匠さんという方とSNSで出会ってお話をしていたら、実はそうではないのではないかと思えてきましたので、今回はそのお話をしたいと思います。
 
以下やんぴ師匠さんの本からの抜粋です。

十下り目では「やまい」について言及されています。
この「やまい」についてこれまでの解釈本では一般論として扱い、私の解釈では特定の人物の話として扱うので、人を特定しますので誤解を与え違わないように慎重に解釈を進めたいと思います。
解釈本の通説をまず載せて、その後、私の解釈を述べて、詳しく説明していきたいと思います。
 
【解釈本の通説】
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人の心というものは、ちょっとには分からないものである。
これまでふしぎなたすけをしてきているけれど、たすけの筋道が明らかになるのは、今が初めである。
水の中にあるこの泥を、早くかい出してもらいたい。
「欲に切りない泥水や 心澄み切れ極楽や」(きりない欲は泥水のようなもの。心澄み切れ。そこに極楽を見る)。
このことは、この先いつまでも、話の種になるのだから。
次のように酷い言葉で諭すのも、早くたすけたいと急いでいるのだから。
その言葉は「なんぎするのもこゝろから わがみうらみであるほどに」(難儀するのも、その元は心からで、我が身を恨むほかはない。)
病は辛いものであるけれど、その元を知っている者はいない。
この度までは、みな一れつに、病の元を知ることができないでいた。ついに、この度明らかになった。病の元は心にあることが。
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この解釈をどう感じますか?
親神様が人類に最も教えたかったことは、病の元は心が原因ということですか?
心が欲で泥水状態になっている人が病気になるのでしょうか?
このお道は今、生かされていることを喜ぶ教えだと思います。
病の原因を世界に解き明かしたから天理教は素晴らしいのでしょうか?
私は子どもの頃、そう思っていました。
しかし病の元を突き詰めていくと、
病気を持って生まれてきた人は?
難病にかかった人は?
と、病気を貶める教えになってしまい、前生で親不孝をしたとか人を苦しめて何人か殺してきたからだと神にしか解らない悪因縁を説いてカルトのようになってしまいます。
「難儀するのも心から我が身恨みであるほどに」と、親神様は病について、万人に対してそんなに厳しい姿勢で臨んでおられるのでしょうか?
陽気なおつとめの地歌なのに表現が厳しいのはなぜか?
そこで考えた結論はこの下りは病を一般論で教えておられるのではなく、特定の人を仕込んで、その結果を後世の話の種に残そうとされたのだと。
 
親神様や教祖が、酷い言葉を出してまで注意するほど、たすけの計画を妨げている人は誰か?
それは教祖の長男、秀司様しかないとなります。
 
  (もいちゃん記)
  秀司様の左足の痛みの平癒で加持祈祷をした際に天理王命がおや様
  に降りられ、その後足の痛みは治っていました。
 
(一部略)
それでは秀司様の足の病はいつ再発したのか?
私は秀司様が吉田神祇管領へ公認運動をするタイミングで再発したのではないかと想像しています。
(一部略)
次に、なぜ十二下りの中に秀司様に関する下りがあるかということを考えてみます。
親神様・教祖がつとめを急き込まれるようになったのは、ある事件からです。
慶応2年秋に起こった小泉村不動院の山伏達の乱暴狼藉です。
(一部略)
その後の対応が教祖と秀司様で二つに分かれました。
(一部略)
ところが秀司様は古市代官所から呼び出しを受けると、公認を得ずに布教をするから問題なのだと教えられて、公認を得ようと、吉田神祇管領へ願い出る事にしました。
(一部略)
これに対し教祖が、
「吉田家も偉いようなれども、一の枝の如きものや。枯れる時ある。」
と、仰せられたにも関わらずにである。
秀司様は教祖が十二下りのみかぐら歌を作成しておられる間に公認運動に力を注いでいたのであった。
だから、十二下りの中に「たすけ」の現状として秀司様が出てくるのです。
それでは、歌に『よくにきりないどろみづや こゝろすみきれごくらくや 』十-4 といわれるほど、欲が深かったのかを考えてみます。
 
秀司様は人生でいくつかの失敗をしたといわれています。
「お秀」という嘉永6年に生まれた私生児がいて、教祖が引き取り、糊や粥を与えるところから大切に育てられ娘の年頃になっていました。また内縁の妻といわれる「おちえ」が川原城にいて、その間に「音次郎」という息子もいました。
これらの事情は水のような清らかなお屋敷を濁している存在であったと言えます。
 
そのような中、秀司様には一家の戸主としての願望があったと考えられます。
それは吉田神祇管領から認可を受け、天輪王明神の代表として組織を采配したいという願望。
そして戸主としてお秀、おちえ、音次郎の将来を決めていきたいという願望があったということです。
 
この秀司様の願望が親神様、教祖の目指すたすけ一条の道と衝突して、経済的にも権限もって采配したいというところから「欲にきりない泥水」と表現されることとなったのでしょう。
 
十下り目の手踊りで、「病」の歌詞のところは右足を重ねて踏みます。左足をしばらく踏まないで4回連続右足を踏むところがあります。
秀司様は(一部略)左足が悪かったのです。
左足が悪いと左足を庇うために右足を余分に動かします。
十下り目の右足を重ねて踏むのは秀司様の姿を表現しているとも考えられます。
 
そして最後に、「病の元は『心』から」の心で左足を踏みます。
「この度現れた病とは秀司様の左足の事」
と、ダメ押しされているように感じます。
 
これが私の悟りです。
(一部略)
『六ッ むごいことばをだしたるも はやくたすけをいそぐから』
「むごい言葉を出して意見するのも、(つとめによるめづらしい)たすけを早く急ぐからである。」
『七ッ なんぎするのもこゝろから わがみうらみであるほどに』
「苦難を味わうのも心使いが原因であって、自分自身をうらむことになっているのだ。」
こんな厳しい言葉を、優しい教祖が話されるのは、我が子である秀司様をどうでも導きたい親心からでしょう。
 
『八ッ やまひはつらいものなれど もとをしりたるものハない』
「病というものは辛いものであるが、原因を知っている者はない。」
『九ッ このたびまでハいちれつに やまひのもとハしれなんだ』
「この度までは皆一様に、病の原因を知ることができなかった。」
『十ド このたびあらはれた やまひのもとハこゝろから 』
「この度、身の上に現れた病の原因は、お前の心遣いから来ているのだ。」
 
 以上のように解釈しています。
 
秀司様に関して一つの逸話があります。
『先生には六十一歳でお出直し遊ばされたのでありますが、その出直しになりました晩、皆々の方がお通夜に出させて頂いておられました。その場で教祖のお口を通じて、こうしたお話のあったことを、私はおすま叔母から聞いております。
「私はこれまで道を思い、お上を思い、村方を思い、親を思うて通って来た。これから皆の者は親神様の仰せ通りに、しっかり通って貰いたい。」
とお話があったそうで御座います。
秀司先生には身上をおかくしになってから、ほんとの腹をお打明けになっておられるのであります。』(昭和十一年「第六回教義講習会講義録」「用木の使命」村田慶蔵より)
 
私たちは教祖と秀司様の関係をよく理解し、信仰の糧としてわが身に照らして神一条で通っているか思案しながらお手を振らせていただくと良いでしょう。

やんぴ師匠の みかぐらうた 十二下り 解釈 より

  やんぴ師匠さんのこの解釈が正しいかどうかはこのお話を聞かれた皆さまの判断によるかと思います。
 
 ただ、私は以前から、十下り目は一般論として解釈するには厳しすぎるおうただと思っていました。
仮にこの十下り目おうたが、秀司様が当時のおや様が仰せになっていることに反対して世間なみに公認を得る活動をしたことに対する親神様の厳しいお仕込みであるおうたであると解釈するならば、それは一般の信者様方に言われているおうたではなく、天理教の教会長クラス以上の方に言われている上級編の内容のおうたであると思えてきました。
 
 一般社会でもそうですが、責任者、管理者の立場である方々は部下や配下のメンバーの方にこうしないさいと指示を出す立場になりますが、まずは自分自身がそれができていないと配下のメンバーはついてきません。
私は会社の社長をしていますから、社員の方に何か言うときはまずは社長自身がそれを守っていないと言えないと思っていますので、自分の行動は非常に気にしています。100点とれる行動はなかなかできないものですが、常に反省と改善を心がけています。
そう考えられるようになったのは本当に最近ですが、そういう行動を心がけるようになってから、社員の皆さんがメリハリをつけて気持ちよく働いて戴けるようになってきました。

 逆に最近ニュースで話題になっているBIGモータの社長さんの対応などを見ていると、正にそれができていない悪い例だと思います。
表面的には部下がついてきているように見えても、部下は内心では、
『この人は言っていることと、やっていることが違うじゃない?
ダブルスタンダードだ。二枚舌だ。』
としか思われませんし、結果的には内部告発をされて会社存亡の危機になっています。
 
 神様は人間が陽気遊山で過ごすことを見てともに楽しみたいと思われて人間のこの体を創造されました。
神様はただただ人間の陽気遊山をみたいだけなのです。
それが上手くできない人間に対しては、ただただ陽気になれるこころづかいをしてほしいと思われているだけであって、苦しんでいる人間がいたらただただ一緒に悲しまれて泣いておられるだけだと思います。
決して、あなたのこころづかいが悪いから病気になるのだよと突き放されたりはしないと思います。
 
 しかし、人々を導かないといけない立場の人間に対しては、考え違いをしている場合には厳しく指導すると十下り目のおうたで言われているだけではないかと思うのです。
 
 最後になりますが、十下り目のおうたは、一般の方を対象にしたおうたではなく、天理教や一般社会の指導者層に対するおうたと理解すると非常に腑に落ち、合点がいくものだと思っております。
 
 私は教会長でもあり、会社の社長でもありますから、立場的には神様からは厳しく指導される対象だろうと思いますので、十下り目のおうたについては内容を真摯に受け止めながら、自分への戒めとして残りの人生を精一杯過ごしていきたいと思っております。
 
以上つたない話ではございましたが、御清聴ありがとうございました。(かしわ手)

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