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(2023:その10)よろこびの理

先日の講社祭でお話した講話の原稿です。

つまるところ、こういうことなのですよね。

人間が喜ぶ⇒神様が喜ぶ⇒神様が人間をますます喜ばせる為に守護をする⇒ますます人間が喜ぶ。

喜びのフィードバックループでようきぐらしの世界へまっしぐらです!!

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本日は、よろこびの理についてのお話をしたいと思います。(かしわ手)
 
神様は陽気ぐらしを見て共に楽しみたいと人間を創造されました。
何もない世界に色々な物質を作り、自然法則を作り、宇宙を作り、太陽を作り、月を作り、地球を作り、生命を作られました。
それらを作ったのも、それらの世界の中で人間という生命を作ってその人間がよろこぶ姿を見て、神も共によろこびたいという想いからです。
このすべての世界は神様が人間をよろこばせる為に作られた世界です。

神様が作られたこの世界の中で、
神様は
『人間がよろこべば、神もよろこぶ
という法則を作られました。
『神がよろこべば、益々人間によろこんで貰いたいから人間が更によろこべるような守護を与える』
という法則も作られました。

ただ、神様は人間が機械やロボットのようによろこぶのを見たいとは思われませんでした。

人間自身に判断させて、自分自身でよろこびの心を作って欲しい。自由意志を持った人間がよろこぶ姿を見て共に楽しみたいと思われました。

そこで神様は、全ての物質、世界、自然、宇宙、地球、火と水と空気、そしてそれらを使って生命の体を作れられて、それらを守護することとしましたが、その中で人間の心だけは人間の自由になるようにして、
『人間が自分自身の心でよろこんだら、神様が守護する(人間の心以外の)全てのものも人間がよろこぶ形となるようにする。』
という法則をこの世界を創造する時に最初に作られました。

これがです。

つまり、その理(法則・ルール)とは、人間がよろこんだら、神様もよろこび、その結果神様が作られたこの世界の全てのものが益々人間をよろこばせるような姿になるというものでした。

この普遍的な理(法則・ルール)をつくられたのは神様ですが、一旦作られたこの理(法則・ルール)は神様自身でも破ることはできません。

もし、破ってしまったらこの世界の成り立ちが根本から崩れるからです。

ですので、神様は人間にどうしてもよろこんでもらいたい。
神様が作られたこの世界の中で人間によろこんで欲しいと切に願っておられます。

しかし、与えられた自由な心を使ってよろこびを表現してくれるだろうと思っていた人間達は、神様が作られたこの世界に対して不足や不満を持つことが多くなってきました。

しかし、神様が人間を作られた時に定められた理(法則・ルール)は、人間がよろこべば、神様もよろこび、その結果として人間がもっとよろこべるような世界を作るというものであった為、人間が自分自身で唯一コントロールできる心でよろこびを感じず、不足や不平不満を言い出すと、神様もよろこべません。
人間がよろこんでくれさえすれば、よろこびを与えたいのに、人間がよろこべないのでよろこびを与えることができず、結果として更に人間が不足を言うという悪循環に入って人間の心が救われないと嘆いておられます。
 
しかし人間のこの心とは神様の心を分けたものです。
分け御霊ともいいます。
良心と言ってもいいかと思いますが、我々人間はその分け御霊である神様の心を持っています。

どんなに悪い心づかいをする人間でも、一片の良心は必ずあります。それが神様から分け与えていただいた分け御霊です。

どのような悪い心づかいをしていても、一片の良心に従い神様の想いに沿った心づかいをちょっとでもできれば、すぐにも神様はよろこび、結果として人間が更によろこべるような守護することができます。

この良心を神心ともいいます。

神心はこの宇宙と調和できる心で、自分だけではなく、周囲を思いやり、調和し、融和できる心です。
この神心が発揮できるようになると、自分の周囲の環境がみるみる良くなっていきます。

皆さんご承知のように、この世界・自然はそのようにできています。
人間が手を加えない自然はほっておいたら自然と草原ができ、森ができていきます。
ほっておいても自然に美しい調和のとれた世界になっていきます。
この世界とは神様がそうなるように最初に理(法則・ルール)を定めて作られています。

逆に、自分だけが、自分だけがという心が人間心です。
人間心とは、自分だけ、身内だけ、自分が好きな人だけ、自分の国だけという我が身試案の心です。

この心になった瞬間に、自分の周り全てに喜べなくなり、不足が溜まり、神様が守護しようと思っても守護できなくなります。

もし、不足を持っている人間が人間心で要求してくる願いを神様が叶えたらならば、それはこの世界を作った根本ルールである理(法則・ルール)を逸脱する行為となるのでこの世界が壊れてしまいますので、神様もそのような人間思案の願いを叶えることはできません。

ただ、少しでも神心に従った行動をしてくれて、そこにわずかでもよろこびがあったならば、それを受けて 大難は小難に 小難は無難 にすることができます。

神様ができることは最大限こうった事だけです。
 
人間の本心は神心です。
でもどうしても人間心がでてきます。

神心と人間心は相反しているので、人間は気づかないうちに自己矛盾を感じてストレスを感じてしまい、結果として不足が発生してしまいます。
その自己矛盾によるストレスによってはどうしても身上や事情などのよろこべないような状況になってしまいます。
それは今まで述べてきたような理にかなっていないからです。
そういった人間思案だけではどうしても解決しない身上や事情が起こった時に、本心と自己矛盾を起こしている 自分だけ 我が身だけが という人間心を悟り、顧みて、少しでも神心に立ち返ってほしいと神様は思われています。

ですので、身上や事情とは決して悪いことではなく、人間心から神心に戻る為の砥石でもあります。

その身上・事情を砥石と悟って、不足を起こさずに、自分自身の人間心を振り返る良い機会であったと悟れるならば、それをたんのうといい、不足の心から喜びの心へと転化できる素晴らしいことです。

そのようにたんのうできた瞬間に心はよろこびに満ちますから、神様も瞬く間によろこばれ、人間をよろこばせなければならなくなります。

その結果、身上や事情がすきやかに晴れるのです。
 
たんのうとは、無理をして苦しい状況をただただ我慢することではなく、その身上や事情が起こってきた背景の人間心を悟り、神心に近づくことでその苦しい状況をよろこびに変えることです。
 
物事には常に二面性があります。

以前お話しましたが、コップの水が半分しかないと思う、か、あと半分もあると思うか。

この心の考え方一つで世の中はよろこびに満ちた世界になります。
 
神様は人間がよろこんでさえくれれば、自分もよろこび、人間をもっとよろこばせたいと思われています。
 
ただ、自分だけがという人間心の無理な願いだけはしてくれるなと念押しをされています。
 
人間心とは自分だけが、我が身だけがという考え方です。
 
おや様が一度たりともこのような考え方をされていたでしょうか?
どのような境遇でも常によろこばれていたのではないでしょうか?
 
どのような状況でもよろこんでさえいれば、神様もよろこび、人間を更によろこばせてくださいます。
 
そうしかできないようにこの世界を作られています。
 
我々人間の心の良心は神様からの分け御霊です。

どのような悪人でも独裁者でも良心は必ずあります。
 人間は嘘を言うと、何故か後ろめたいものです。
人間は約束を破ると、どんな悪人でも必ず言い訳をします。
言い逃れできないと思うと自分を守る為に怒りだします。
良心がなかったらなぜ言い訳をしたり、怒ったりする必要があるのでしょうか?

人間には必ず良心があります。

この良心は10億年前に神様から分け与えられた分け御霊である神心です。

この神心に従って生きてさえ行けば、よろこべないようなことには決して起こらないと思います。

人間心:8 神心:2の方は、人間心:7 神心:3を目指し、
人間心:5 神心:5の方は、人間心:4 神心:6を目指していければいいかと思います。

もしも、人間心:0 神心:10になられた方は、おや様が50年のひながたを通してなられた心境に達したということですので、神様が求められる完全なるようきぐらしができる心になられた方です。
 
三年千日とは、この人間心と神心の割合をちょっとでも神心の比重を大きくする良い機会ではないかと思いますので、是非皆様も御自分の中の良心である神心と対話されてみませんか?
 
 
以上つたないお話ではございましたが、御清聴ありがとうございました。(かしわ手)

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