ジョン・F・ドノヴァンの死と生 The Death and Life of John F Donovan/グザヴィエ・ドラン
タイトル:ジョン・F・ドノヴァンの死と生
The Death and Life of John F Donovan 2018
監督:グザヴィエ・ドラン Xavier Dolan
ドランの映画を見るたびに彼による”ベタな表現”に関心させられる。冒頭のニューヨークの街並みを海側からなめるシーンに合わせて流れるアデルのRolling in the deepを目と耳で感じる時、ハッタリでない力強さを感じる。下手すると大仰になりかねない表現なのに、「これを見せたいんだ」という強い意志が画面をはみ出してひしひしと伝わってくる。
大ネタの扱いというとちょっといやらしい言い方にはなるけれど、普通は自意識から出てくる羞恥心のせいで扱う事のないものを高らかに扱う彼のステイトメントはどの作品でも一貫していて痛快な気分にさせる。フローレンス&ザ・マシーンによるStand by meは少しやり過ぎな感じもあったけれど、ラストのリバー・フェニックスを思わせる恋人とバイクに跨り去るシーンで流れるヴァーヴのBitter Sweet Symphonyはドランらしい面目躍如どのいったところか。
映画の主題は芸能界という虚像の中でのジョンの苦しみと、新境地での生活に馴染まないルパートとの感情面でのシンクロニシティではあるものの、両者の母親との在り方の方がテーマとしては大きく感じる。息子を破綻させまいと奔走する母親たちとの葛藤が彼らを苦しめ、同様に彼女らも困惑している。ただその苦悩を文通でやりとりする事でジョンとルパートは通じ合い、ルパートはジョンの生き方から自分らしく生きようと決めたということがラストで上手く描かれていた。
2006年がマイノリティにとってまだ生きづらかった時代だったのかと思うと、今の時代と隔世の感がある。先日アメリカのドラマGreeを観てた時、LGBTだけではないマイノリティの生きづらさが描かれていて来るべき10年代の萌芽を感じた。Greeは2009年スタートということもあり、2006年はマイノリティへの意識はまだ低かった時代としてこの映画に触れると、今の時代とは別の価値観に支配されていたのが分かる。ゲイという出自を隠しながら結婚し、世間の体裁を保つ生き方しか出来なかったジョンが生きた時代。身近な理解者が兄だったというのも深掘りされていないものの、描写としては重要だったと思う。虚実ないまじったメディアの情報しか得ることが出来なかった母の心情は兄のそれとは全く異なることで、陰影が浮き彫りになるのも中々に切ない心情だったと思う。(母親役のスーザン・サランドンはロッキー・ホラー・ショーに出演していたのもキャスティングのひとつだったのかも)
最後にひとつ難を言うと、かなり細かく編集で刻まれてしまったため言葉の余韻があまり無く、冗長さが無くテンポはよかったものの重みの演出が希薄だったように感じた。2時間という長さは感じさせない巧みな編集だったものの、テーマに対して味わい深さを感じさせるまでは至らなかったのが少し残念だったと思う。こればかりは昨今の映画全般に言えることなので一方的にドランを責める事は出来ないものの、もう少しかったるさを出した方が良かったようにも感じた(この辺りの時代の移り変わりによる、カット割りや編集についてはParis,Texasのヴェンダースによるコメンタリーを聞いてほしい。今は出来ないと明言している)。とはいえドランの美意識は全体に貫いていたし、冒頭のピンボケからピンボケへのシーンの繋がりなど、非凡無く才能は各所なら現れていたのでこれから年をとり、どのように老いていくのかに期待したい。