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世界で一番好きな(のかもしれない)音楽⑥/James Blake

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先日ジェイムス・ブレイクのファーストアルバムがリリースされて10年という記事を見かけた。もう10年経ったのかという思いと同時に、まだ10年しか経っていないのかという気持ちも沸き起こる。というのも2011年の初頭に聴いていたというのがやっぱり強く残っているからというのが大きい。震災の時の記憶と共に歩んできた感覚がこのアルバにはこびり付いてしまっている。思い返すと2月に出たこのアルバムは高橋健太郎さんがツイッターで絶賛していて、気になって買ったものの最初はどこか取っ付きにくさがあって、そこまで聴き込んではいなかった。最初にジャケットを見たとき、なんか安っぽいなと思ったのも覚えている。僕はその頃、00年代通して一応新しいものもそれなりに聴いたり知識として知ってはいたものの、戦前の音楽や南米音楽のアコースティックなものに傾倒していたので、リアルタイムの特にイギリスの音楽から一番遠ざかっていた時期だった。けれども何度か聴いていくうちに、90年代に聴いていたブリストルの音楽や、80年前後のポストパンク、00年頃の2ステップなどUKダブやクラブミュージックに連なるものを感じ取った時、気づけば何度も再生ボタンを押し、You Tubeに上がっていたスタジオライブの動画を繰り返し観ていた。そんな最中に3月11日の震災と原発事故が起きたあの日々が訪れた。

3月11日は仕事が休みで、前日は音楽を作っていたりと朝方まで起きていたのだけど、不思議な事に朝7時に「地震が来る。地震が来る。」という声が頭の中に入ってきてぱっと目が覚めた。前日寝る前に地震の記事を読んでいたからかななんてその場では思ったのだけれど、これは今でも謎。当然予知能力なんか持ってないし、日々幻聴が聞こえるような病気があるわけでもないので、いまだに何だったんだろうと不思議に思う。
 その日は15時から歯医者の予約を取っていて、17時にスタジオで録音するスケジュールだった。一緒に住んでいた弟もその日は家にいて、14時45分に家を出ようと玄関で弟と話をしていた。家を出る寸前、大きな揺れが来た。「やばい!」。大きな揺れの中、気づけば弟と僕はとっさに棚を抑えていた。今思えば、もっと大きな地震だったらふたりして棚の下敷きになる所だったのだけれど、幸いそこまで大きなものではなく、棚の上段に乗っていたものが崩れただけだで済んだ。
 とりあえず歯医者の予約が気になってそのまま家を出た。面白いもので、家が倒壊したり、火事が起きたりと目に見える災害が無いと普段の生活を優先しようとする気持ちが勝る。その時は地震がありながらも予約に遅れるという気持ちの方が強かく、歯医者で度々来る余震の中治療を受けて帰宅。ふと木造の実家は倒壊してないかと不安になり、目と鼻の先にある実家に行ったら何事もなく家はそのまま建っていた。17時からスタジオを予約していたので、一旦駅を見に行ったら電車が止まっている。こりゃ参った、予約に遅れるなどうしようかなと考えながら実家に戻り、茶の間のテレビをみて愕然とした。ヘリコプターが映す福島の海岸から、濁った津波が陸に向かって行くのを見た時、そこでやっと事の大きさが見えてきた。海岸近くを走る車が右往左往している間に津波に飲まれていく様子をただ眺めるしかない状況に、途轍もない事が起きているのだという実感がじわじわと湧いてくる。何なんだこれは?
 当時結婚前の妻もその日は休みだったのだけど、仕事が残っているからと恵比寿の美容院に行った後に渋谷の職場にいくという話を聞いていた。彼女に電話したら丁度地震が起きた時は美容院にいたのだけれど、歩いて渋谷の職場に移動したという。一旦電話を切って交通状況を確認すると電車は全てが止まっていて、運転再開の気配がない。予約していたスタジオに電話しても繋がらないので、行くのは諦めて父の車を借りて妻を迎えに行くことにした。

僕が住む大田区から渋谷まで車で向かっても、夕方混んでいても大体40〜50分くらいで着くので、まあちょっと混んでるだろうから一時間半くらいかななんて軽い気持ちで車を走らせた。環8から246経由で行こうとしたものの、環8が混み始めていたので中原街道から環7、目黒通りを抜けて山手通りに着いたのは出発してから2時間経っていた。どの通りも混んでいて、車が進むのを待ちながら赤いテールランプが先の先までずうっと連なっている光景は今でも覚えている。何度か車を止めて妻に電話するものの、たまに繋がるくらいでほとんど繋がらず、かろうじて繋がるスカイプやツイッターで連絡を取り合っていた。その頃、妻は渋谷を離れて代官山方面へ歩いているということだったので、僕が向かっている道筋を説明して途中落ち合おうと電話を切った。中目黒で右折し、旧山手通りを246方面に進みながら歩道をみると、普段そんなに人通りがない通りに人が溢れている。後に観た映画”寝ても覚めても”で描かれていたような、帰路を目指して歩く大群そのままの光景が、街頭のオレンジがかった色が人々の群を照らしていた。
 「あーこれは落ち合うの無理かもなー」なんて思っていたら、窓をこんこんとノックする音が聞こえてきた。目をやるとそこに妻が立っていた。「色が特徴的だからすぐ分かった」。すごい!奇跡!妻が車に乗り込み安堵の空気に包まれながら、この時点で出発から3時間が過ぎていた。
 帰りも当然混んでいて、家に着くまでさらに3時間かかったのだけれど帰路はあまり覚えてない。まあ行きについては「彼女をピックアップ出来るか?」という緊張感があったから色々覚えていたのだと思う。実家に戻りテレビをみると気仙沼が暗闇の中、炎で覆われていた。津波の後、夜の東北を映したカメラは暗闇と炎しかなくて、現地がどうなっているのか分からなかった。
 翌日から会社は数日間営業停止だという連絡を受けての自宅待機。テレビはACのポポポポーンの雄叫びが何度も繰り返されて嫌になる。スーパーやコンビニからは食材が片っ端から消えたけれど、いくつか残っているのは激辛とか書かれたものだけだったと思う。追い討ちをかけるように原発事故が起こり、テレビでACと原発事故と、津波の被災した様子を眺めていた。3月11日当日まではまだ楽観的だった雰囲気が、明日の見えないこの世の終わりのような現実に徐々に変わっていった。
 自宅待機の数日は異様に長く感じたものの、ジェイムス・ブレイクの音楽はそんな非日常な状況と妙にマッチしていて、ダークな雰囲気の中に癒しを感じた。細野晴臣の「バナナ追分」とジェイムス・ブレイクは、そんな日々に救いを与えてくれるような気がした。正直なところこの数日間をどの様に過ごしたのか、あまり覚えていない。津波が起こした原発事故という東電の不祥事は、テレビの画面からデンコちゃんを抹殺していた。覚えているのはACのCMと原発事故をテレビ越しに固唾を飲み込みながら観ていたくらいだろう。気付けば以前の暮らしに徐々に戻っていた。

辛い現実に「その話はしたくない」という友人もいれば、政治的な側面を強めた友人もいた。僕はどちらかといえば後者で、それまでノンポリだった政治への考えは改めざるを得なかった。それまで左も右もどこか極端で、真ん中である方がバランスが取れていいのでは?と思っていた。その後の選挙を経験するにつれ、中道はどっちつかずで言葉巧みな側の都合の良い存在でしかない事に気づいた。どちらでも無いという事はどちらでもある。答えを出さない事は、徴収される立場で殺される立場なんだなと強く感じた。震災という出来事を機に自分が嫌だと思う政治に対して”No”を突きつけるべきという考え方に変わった。右か左かというよりも、今目の前で公言された政策に対して正しいかどうかを考えるきっかけになったのは間違いない。民主党であれ自民党であれ、声を上げる事が重要なのだと多くの人が目覚めたのではないかと。
 現実は自民党が与党に戻り、絶句する場面にばかり出くわす。嘘や隠蔽を繰り返す与党に果たしてこれでいいのか?と苛立ちを覚える。かつてNo Nukesや原発反対を掲げていた周囲の活動を、自分と無縁と思っていた自分を振り返る。彼ら彼女らが何を訴えていたのかを、歴史に残る大事故の後に気付く自分の浅ましさに反省しながらも、自分の子たちに負の遺産は残したく無いという気概は常にある。

もう10年経ったのかという気持ちと同時に、まだ10年しか経っていないのかという気持ちは、進まない被災地の復興やいまだに終わりが見えない原発事故による廃炉までの道のりに対しての、解消される事のない気持ちが綯い交ぜになっている。今も非日常は続いている。


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