世界で一番好きな(のかもしれない)音楽⑬/Clairo「Charm」
・MOR化するUSインディシーン
2010年代のアメリカは好調な経済の下支えもあって(そこから現在はインフレが問題化しているが)、音楽と映画のインディシーンはこれまでにないほど芳醇で雑多なものが増えた。マス向けの高い予算を使った制作や大体的なコマーシャルな志向から、インディペンデントな表現との境目が曖昧になりつつある傾向が顕著になっている。00年代からその傾向は見え始めていたが、よりその傾向が強まった年代と言える。
映画でいえばA24やNeonの様なアメリカンニューシネマの再来のような複雑な感情表現やアーティスティックなヨーロッパ志向、00年代のマイノリティへの視点が細分化され性差別や人種差別への問題警鐘へとシフトしていった。分かりやすくキャッチーな派手さよりも、より個人的な嗜好性が強まった作品が増え、チャートインどころかグラミーやアカデミーといったショーレースにも顔を出すようになったのは記憶に新しい。
インディ俳優からメジャー監督へと活動を広げたグレタ・ガーウィグが象徴的なように、インディペンダントからメジャーへと活動の場を広げながら時代の空気をしっかりと捉えた作家の登場は大きなトピックとなった。
同じ様に音楽でもUSインディシーンを見てきた中で、僕が感じてきたものを振り返るといくつかのポイントがある。とはいえシーンの隅々まで聞いているわけでもないので、偏りや抜け落ちているものなどあるとは思うが、気になった所をいくつか挙げてみる。
①サイケデリックでチルでドラッギーなサウンドからニューエイジ/アンビエントな表現への広がり
②オンライン上での発表の場が増えた事による抑えた表現を主にするベッドルームミュージックの台頭
③80年代UKインディからの影響
④サブスクの登場による国やジャンルの越境
⑤新たなフォークミュージック
⑥MOR化するUSインディシーン
①はウォッシュド・アウトやトロ・イ・モアらチルウェーブ勢と、YouTubeを主戦場としたマッキントッシュ・プラスやセイント・ペプシらヴァイパーウェーブ勢のドラッギーな表現が台頭していたが、その後シーン全体でチルとドラッギーな表現は蔓延していった印象がある。リヴァーブ感のある浮遊感と、西海岸で解禁されたマリファナは無縁ではないと感じている。すでに00年代にも見られていた兆候ではあると思うが、10年代に入って顕著になったのは間違いない。
ニューエイジ/アンビエントはアメリカのレーベルLight in the atticを中心に、掘り起こしが進んだ。ヒッピーカルチャーの後にスピリチュアルと宗教色から敬遠されてきたニューエイジの音楽面での再評価や、日本のアンビエントを捉え直した「Kankyo Ongaku」などある種のメディテーションは残しつつかつての文脈を切り離して評価軸に加えるムーブメントもこの流れと無縁ではないと思う。
②の代表格はビリー・アイリッシュだと思うが、クレイロや多くのインディシーンの表現形態として、自宅からの配信というのは10年代を通してメジャー化したスタイルとなった。サウンドクラウドやバンドキャンプ、YouTubeなど、レーベルを通さずとも個人で発表する場が増えた事で様変わりした時代の変化を感じさせる。そして表現としては歌い上げるような力強い歌声ではなく、抑えた声量で歌っているのも特徴と言える。ブロッサム・ディアリーを参照している人が増えたのもこう言った嗜好が関係しているようにも感じられる。ブラジル音楽やボサノヴァが好まれるのも共通したものがある。
③は80年代カレッジチャートに入っていたイギリスのミュージシャンの影響が表面化した結果でもある。現行ミュージシャンの親世代が聴いていたこれらの音楽たち、特にザ・スミスやコクトー・ツインズ(エリザベス・フレイザーの存在感が大きく増した)などラフトレードや4ADといったレーベルを含めた影響は色濃い。80年代の4ADにあったリヴァーブ感は10年代のドリームポップらのチルな音楽への影響は特に強い。インディペンデントの精神性は、ここに来てアメリカでオーバーグラウンド化していた。
④はサブスクの台頭前から古くはデヴィッド・バーンのレーベルであるルアカ・バップや、フリート・フォグシーズのロビン・ペックノールドがブラジルのミナスサウンドから影響を公言していたように南米へからの影響や、ベックがセルジュ・ゲンズブールから影響を受けていたりと下地はあったが、サブスクのプレイリストが各々のミュージシャンが公開するとさまざまな国の音楽に触れているのが可視化された。ピッチフォークが欧米圏以外の音楽をフックアップしていたのも大きい。
ジャンル越境という点ではフランク・オーシャンの「Blonde」の様に、R&Bとチルが合わさったChill&Bが内包した音楽性と共に、US/UKインディシーンとアダプトしつていたのも大きなトピックとして記憶している。ロスタムやアレックスG、ジョン・キャロル・カービーやデュヴァル・ティモシー、ヴィーガンなどこのアルバムをきっかけに活動は広がっている。
⑤はビッグ・シーフを代表にアパラチアンフォークやカントリーブルースに限らない、イギリスのネオアコっぽさも感じさせる表現が出てきたり、フローリストのエミリー・A・スプレイグのようなアンビエント・フォークとモジュラーシンセを使用した、ニューエイジ/アンビエントを両立する表現者も登場している。この辺りは90年代末から00年代初頭のシカゴのシーンが先んじて台頭していたが、より広いリスナーに浸透してきている。
⑥はフリートウッド・マックのDreamsがコロナ前から最中の時期を通して新たなスタンダードとして再浮上したのも記憶に新しい。ひと昔前であれば見向きもされなかったものが再度注目される現象は度々起きるが、中道ど真ん中のこういった曲やドゥービー・ブラザーズの「What a fool believes」が取り上げられるのもこれまでからは考えられなかった事態でもある。ヨットロックの影響も大きいと思うが、00年代からフュージョンやAORをブルーアイドソウル/R&Bの観点からダンスミュージックとして捉え直す動きがあった事も少なからず直結している。
そういった感覚を表現に落とし込んだのが、ワイズ・ブラッドの「Titanic Rising」で、ジョージ・ハリスンやカーペンターズばりのMORを展開したまさに中道というアメリカンゴシックの新たなスタンダードを打ち立てていた。10年代を通して振り返るとシャーデーから影響を受けたライ/クアドロンや、先鋭的なシンセサウンドから一転アコースティックなアルバムを作ったジュリア・ホルターの「Have you in my wilderness」といった先達はある。ただその大元を辿るとラナ・デル・レイのデヴィッド・リンチ的で妖艶なゴシカルな世界観の影響の強さも各所で感じさせる。
・レアグルーヴとは異なるMOR的ソウルミュージックからの影響
それらを踏まえてのクレイロの新譜を聴くと、今のアメリカの音楽シーンの座標軸の一端が垣間見れる。YouTubeで注目を集めた後のデビュー時はベッドルームミュージックの雄として台頭していたが、セカンドでコロナ禍でベッドルームそのままな表現に陥ってしまった感があった。時代の空気を反映しすぎたというか、かえって閉塞感を生み出してしまい、その空気に呑まれた雰囲気に包まれていた。
しかし本作ではアメリカのエンターテイメントの奥深さを感じさせる作品へと昇華されていて、バート・バカラックやローラ・ニーロ、キャロル・キングの様なR&Bと密接に関わっていたソングライターの作風からの影響や、彼女が愛聴するマーゴ・ガーヤンやジュディ・シルからの影響も強く感じさせる。
本作の評ではヴィンテージソウルと形容される事が多いが、バート・バカラックの曲を歌うディオンヌ・ワーウィックや、ローラ・ニーロやジミー・ウェッブの曲を歌うフィフス・ディメンションのようなある時代のMORからの影響が本作の肝のように感じられた。レアグルーヴのようなダンスミュージックとして捉え直す動きと違い、この辺りの歌とアレンジを上手く汲み取った所がヴィンテージソウルと形容される所以があるのではないだろうか。
そういった過去の遺産から養分を得ながら、ファーストアルバムのインディロックと現代のR&B/ヒップホップからの影響の出自を残しつつ、新たなフェーズへと移行した。声を中心としたアンサンブルのバランスなど、過渡期ではあるかもしれないがライブ演奏を見る限りデビュー当時の拙さは解消されていて、ライブでも堂々たる姿に出来上がっている姿をみると、アメリカのエンターテイメントのタフさがそこに感じられる。
ディミニッシュコードから始まりシンセとハミングが重なる「Juna」の匂い立つ雰囲気、名曲「Bags」の延長線上にある曲調の「Add up my love」の逆回転と思われるピアノの間を生かしたコードワークとフルートのフレーズ、バカラックやポール・ウィリアムズ、ロジャー・ニコルスらSSWを彷彿とさせる「Thank you」、繰り返されるSexyという歌詞とブギーを匂わせるアンティシペイションが印象的な「Sexy to someone」なと名曲が並ぶ。
本作は時代を変える作品ではないにしろ、時代の空気を捉えた作品なのは間違いない。時代を作り出してしまったビリー・アイリッシュと異なるのは、時代の空気を捉える能力の違いであって、よりリアルなシーンや世相の空気を良くも悪くも掴んでいる。クライロの音楽を聴いて好意的な印象を受けるのは、実直なまでにインティメイトに遂行しようとするアティチュードがあるからだろう。
少女から大人の女性へと変化する中の揺らぎもリアルで、コケティッシュな面も自覚しつつ失われずに保ち続けている所も大きな魅力だと思う。