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世界で一番好きな(のかもしれない)音楽⑨/コーネリアス Mellow Wave

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五輪起用の一件で周知となった小山田圭吾のいじめ発言問題は色々と考えさせる事が多い。一応僕のスタンスをはっきり示しておくと、こういった発言はするべきじゃなかったと思うし、ふたつの雑誌も時代の空気は少なからずあったとしても、編集という目を通す限りは出版しないという倫理観の選択は出来たのではないかと思ってる。ここに書かれたものが是か非か以前に、語られてる出来事に近いいじめを体験した人やや障害を持つ人々という当事者が目にする機会がある限りは、マイナスに作用する可能性しか感じない。五輪の担当から外されたのは必然なのは当然の結果。けれどこれらは残念ながら四半世紀前に、出版されてしまっている。
8月10日に公開された日本自閉症協会のステートメントは、被害者の視点を欠かないようにして欲しいというものと、ネット上で加害者を叩く事への憂慮も書かれていた。

僕が以前から心にもやもやとしているものを感じているのは、その後者の内容だった。勿論、直接の被害者や近い被害に合っている方たちを擁護するのが最優先なのは間違いない。
しかし、勧善懲悪の価値観で誰かが起こした過ちを何もかも断罪するのは、大分違和感を感じる。一切間違いを犯さずに人生を真っ当に終える人間はいるのだろうか?誰にも危害を加えずに人生を終える人は中にはいるかもしれないけれど、少なくとも全員が全員そうかといえば、甚だ疑問が湧き起こる。身近な所では親族のいざこざはあるだろうし、そもそも自分が誰かを嫌な目に合わせた事が有るかは、合わせた相手側にしか分からない。幼少の頃の記憶も無い時期に、誰かを傷つけていた事もあるかも知れない。傷つけた本人は覚えていなくても、傷つけられた本人にとってトラウマになっていれば、時間の経過は関係なく加害者と被害者の立場になる可能性はある。僕自身の経験では、小学校のクラス中から教師を筆頭に馬鹿にされた経験を今でも覚えている。いじめた記憶はないけれど、友人や年下の子をからかった事はあるから、それをいじめと言われたら反論する術はない。誰しも知らぬうちに加害者になっていた可能性は潜めているし、やられた事の記憶が色褪せずに留まっている事もあると思う。

今回の小山田圭吾の一件に話を戻せば、彼がクイックジャパンとロッキンオンジャパンで独白した内容を、今までの間に謝罪するタイミングは無かったのか?という問題をこの一件が炎上している間ずっと考えていた。2chでは度々この問題が浮上して、その度に炎上していた。今振り返れば、そのどこかのタイミングで謝罪は出来た可能性はある。けれど結果的に彼はしなかった。憶測になるけれど、恐らく謝罪する事で藪蛇になり必要以上のバッシングを避けられないと判断したのでは無いだろうか。2chが便所の落書きと揶揄されていた通り、その様な場で起きている事に対して無用な炎上を避けたいという本能が働いたから、謝罪をする事なくこういった結果にまで広がってしまった様にも思える。そこに関しては、本人もそれを見過ごしてきた人々にも責任はあるように思う。被害者への謝罪のターニングポイントは、いくつも分岐がありながら最悪のタイミングで表面化した事に他ならない。被害者の気持ちをおざなりにしてしまったツケは当然の結果だったといえるし、それに対してNOを突きつけてこなかったファンも傍観者としての罪の意識はもつべきだと感じられる。

本質的な問題は、こういった出来事に対して彼がどうすればよかったのか、多くのメディアでサジェスチョンが語られない事だと思う。そもそもいじめをしなければいい、そんな事を武勇伝の様に語らなければいいというのは最もである。しかし、その是非を問うのは公開処刑のようなSNSやメディアの場なのだろうか?倫理的に駄目なことをした人を、社会から追い出す様なやり方はどうも腑に落ちない部分があり、臭いものに蓋をするだけで物事の闇の部分を更に闇の奥へと押し込んでいるように感じられる。それは単純に懺悔すれば良いというわけじゃなく、何が起こっていたのかを当人たちから聞き出し検証する事で、闇に光を当てる事は可能じゃないのだろうか。過ちを犯した人間に対して、死刑執行する勢いで断絶するよりも、当人たちの口から何が起きていたのかという事を紐解いていく方が、前向きな解決に働く可能性は大きい。それで解決出来ない可能性も勿論あるし、新たな断絶を加害者と被害者にもたらす結果にもなり得る。けれど、過ちを犯したから口もだせない状況を作り出して、吊し上げて黙らせるのはちょっと違うのでは?と常々感じている。

あなたも被害者かもしれないし、加害者かもしれない。その問題は他者との関係であって、それを解決するには他者とのコミュニケーションしか解決方法はない。ここで僕が書き連ねている事が間違っているかもしれないし、正しいかもしれない。でもそれは僕だけで判断は出来ない。それぞれの正義を掲げた時にいつの時代も争いの火種になる。けれど相手を受け入れる姿勢を取ることは、決して間違いじゃ無いと願いたい。

アルバム「Mellow Wave」に収録された「未来の人へ」の坂本慎太郎による歌詞は、皮肉にも本人不在のこの状況を描いているようだ。

その部屋には 私はいない
傷だらけの 盤があるだけ
気まぐれでも 針をおとせば
何回でも 会えるでしょう
今日出来た 曲を奏でて
さりげなく 友達が歌いだす
今ここから 未来の人へ
まだそこには 誰かいますか?
遥か


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