ルイス・アルベルト・スピネッタの軌跡④/二枚のソロ”ジャズ”アルバム
・バンダ・スピネッタからアメリカレコーディングへ 二枚のソロ”ジャズ”アルバム
・Luis Alberto Spinetta/A 18' del sol 1977
リリース:1977年10月
Lado A
Viento del azur 4:49
Telgopor (Instrumental) 2:50
Viejas mascarillas 5:10
A 18' del sol (Instrumental) 5:30
Lado B
Canción para los días de la vida 5:49
Toda la vida tiene música hoy 4:41
¿Dónde está el topacio? 5:11
La eternidad imaginaria 4:42
Luis Alberto Spinetta: Guitarra y voz.
Carlos Alberto "Machi" Rufino: bajo jazz bass.
Diego Rapoport: Teclados.
Osvaldo Adrián López: Batería.
Marcelo Vidal: Bajo en "Viento del azur".
Gustavo Spinetta: Batería en "Viento del azur".
compuestos y arreglados por Luis Alberto Spinetta
インヴィシブレ解散後、スピネッタは1977年から1979年にかけて、いわゆる「ジャズ・プロジェクト」として、インストゥルメンタルを主体としたロックとジャズの融合したサウンドを演奏するためにジャズ出身のミュージシャンを招集した流動的な編成の通称「バンダ・スピネッタ」を結成。メンバーはスピネッタとディエゴ・ラポポルト(キーボード)、オスバルド・アドリアン・ロペス(ドラムス)、インヴィシブレから引き続きカルロス・アルベルト・"マチ"・ルフィーノ(ベース)が参加した。アルマ・イ・ヴィーダのグスタボ・モレットの紹介でディエゴ・ラポポルトと出会ったことから始まり、スピネッタをマハビシュヌ・オーケストラを中心とした当時のジャズ・ポップスの音楽的可能性へと導いた。このメンバーで70年代の傑作「A 18' del sol」のレコーディングがスタートする。アルバム冒頭の「Viento del azur」のみ、ベースにマルセロ・ビダル、ドラムに実弟のグスタボ・スピネッタが担当している。
「Canción para los días de la vida」はアルメンドラ時代の未発表ロックオペラからの曲で、穏やかなフォークロックナンバー。「Telgopor」と「A dieciocho minutos del sol」はギターとエレクトリックピアノの掛け合いが、ハットフィールド・アンド・ザ・ノースやユーロジャズロック辺りを彷彿とさせるインストルメンタル。「Viejas mascarillas」「Toda la vida tiene música hoy」「¿Dónde está el topacio?」「La eternidad imaginaria」はスピネッタの温かみを感じさせるSSW的な側面は、バンドとの強固なアンサンブルによってインヴィシブレとは違った世界を作り出していた。彼はこのジャズの時期を、息子のダンテの誕生と結びつけている。
このアルバムは、ペスカード・ラビオーソやインビジブレのサウンドの延長にありながらも、当時のファンや批評家からは受け入れらなかったが、後年スピネッタの膨大なカタログが見直されるにつれ、「A 18' del sol」はスピネッタの最高傑作のひとつと考えられるようになった。スピネッタにとってバンドのプレイは「人生で最高の録音だった」と語っている。これをきっかけに、スピネッタはジャズ・ミュージシャンとの音楽的な関係を頻繁に持つようになった。
アルバム名「A 18' del sol(太陽から18分の距離)」は、地球と太陽の間の距離を光分で測定したものだったが、誤って10分多い数をタイトルにしてしまった。誤りに気付きながらもタイトルは変えることなく、そのままにすることにした。
アルバムリリース後の1977年末には、レオ・スジャトビッチ(キーボード)、グスタボ・バステリカ(ギター)、リナルド・ラファネリ(ベース)、管楽器を担当したベルナルド・バラジ(サックス)、グスタボ・モレット(トランペット)、リカルド・サンズ(ベース)、エドゥアルド・ズベテルマン(キーボード)、ルイス・セラボロ(ドラムス)など、スピネッタはジャズ志向を深めるために新しいミュージシャンを召集し、「バンダ・スピネッタ」は拡大していった。
1978年4月に未発表曲を中心としたレパートリーでコンサートを行い「Tríptico del eterno verdor(20分以上の大組曲)」「Covadonga」「Las alas del grillo」「Tanino」「Tu destino es el de morir de amor」「Estrella gris」「El Turquito」「Bahiana split」「Los espacios amados」などを演奏していた。
1979年の初めには、バンドは変革を得てエクスペリメンシア・デメンテ(Experiencia Demente)という名前を名乗り、1月にマル・デル・プラタでコンサートを行った。ラ・マキナ・デ・アセル・パハロスのメンバーだったグスタボ・バステリカ(ギター)、ルイス・セラヴォロ(ドラム)、元ポリフェモのリナルド・ ラファネリと共に、「Pájaros de la fe」「El sueño de Chita」「Para ir」「Ondas y caderas」「Viento celeste」などの曲を演奏した。
1978年にEdiciones Tres Tiempos社から最初で唯一の著書「Guitarra negra」を発表した。表紙は、黒地にスピネッタの顔が反転した心霊写真のようになっている。この本は、無題の7つのパートと「Escorias diferenciales del alma de la letra poética」(詩的な歌詞の魂の差分)と題された8つのパートで構成されており、それぞれに一連の詩が収められている。「両親と子供たちへ」と捧げられたこの作品は、「警告」で始まる。
バンダ・スピネッタはスピネッタのアメリカ録音のため消滅し、その音楽性は後のスピネッタ・ハーデへと発展することになる。
・Luis Alberto Spinetta/Only love can sustain 1980
リリース:1980年
LADO A
Who's To Blame (Harold Payne, Tom Pierson) 4:34
Tenor Saxophone – Ray Pizzi
Vocals – Ren Woods
Only Love Can Sustain 2:43
Love Once, Love Twice, Then Love Again (Byron Olson, Spinetta) 4:24
Electric Guitar – Jeff Mironov
Flugelhorn – Marvin Stamm
Omens of Love (Gino Vanelli) 3:34
Arranged By, Conductor – Patrick Williams
Interlude (Jade I) 0:53
LADO B
Interlude (Jade II) 0:27
Something Beautiful - 4:48
Acoustic Guitar – Gustavo Bazterrica
Children of the Bells (Guillermo Vilas, Spinetta) 5:52
Acoustic Guitar – Jay Berliner
Tenor Saxophone – Eddie Daniels
George's Surprise (Spinetta, Michael W. Marcus) 4:18
Light My Eyes 5:32
Interlude (Jade III) 0:50
Luis Alberto Spinetta: Guitarras y voces
Gustavo Bazterrica: Guitarra
Músicos sesionistas:
Tom Pierson – Teclados
Pat Rebillot – Fender Rhodes, Piano
Michael Boddicker – Sintetizador
Neil Stubenhaus, Chuck Domanico, Abraham Laboriel, Francisco Centeno – Bajo Eléctrico
James Gadson, Terry Bozzio, Ronnie Zito – Batería
Dennis Budimir, Tim May, Marlo Henderson, Spencer Bean – Guitarra
Jeff Mironov – Guitarra Eléctrica
Jay Berliner – Guitarra Acústica
Paulinho da Costa, Luis Conte, Alex Acuña, Rubens Bassini – Percusión
Marvin Stamm – Fliscorno
Debbie McDuffy, Hilda Harris, Vivian Cherry, Yvonne Lewis – Coros
スピネッタの長いキャリアの中でも一番の異色作となったアルバム「Only love can sustain」。独自の音楽性を作り続けてきたそれまでのスピネッタの音楽性と比べると、ジャズという根底にあるものは共通するが、ソウル/R&B、AOR、MORといった70年代後半から80年代初頭のアメリカ西海岸のトレンドがふんだんにまぶされていて、スピネッタ独特の音楽に触れてからこのアルバムを聴くと大きな違和感を覚える。しかしスピネッタの作品というイメージを一旦脇に置いてアルバムに触れると、良質でしなやかなソウル/R&Bなサウンドが全面に出ていることに気付く。視点を変えてレアグルーヴ的な耳で聴けばそこまで違和感は感じられず、同時期のリオン・ウェアやカーティス・メイフィールドにも通じる、アーバンなR&Bとして触れるのが今は正しいのではないだろうか。「Love Once, Love Twice, Then Love Again」「Something Beautiful 」「George's Surprise」と言ったグルーヴィな曲はアルバムの中でも聴きどころである。ハイトーンで、ゆらゆらと揺蕩うメロディを歌うスピネッタはカーティス・メイフィールドの様なスタイルを見立てて作られているかもしれない。それ以外のバラード調の曲はどこかサラ・ヴォーンが歌う姿を彷彿とさせる。
キャリアから見ると突飛に見えるこのアルバムの経緯は以下の通り。
当時の個人的な友人であり、息子ダンテの名付け親でもあるテニスプレーヤーのギジェルモ・ヴィラスが、コロンビア・レーベル(CBS)と世界的なリリース契約を結び、スピネッタをアメリカ市場に紹介する目的で先の5年間のプロジェクトを、アメリカのトップ・ミュージシャンとアメリカでレコーディングするように導いた。当時クロスオーバージャズが全盛で、アメリカのカリフォルニアの多くのプレイヤーがこのジャンルを演奏していました。後年、スピネッタとの関係を見直すためにヴィラスは取材に対して「何か新しいことをしようと誘われた特別な時間だった。彼は常に新しいものを求めていました。また彼には一段ずつステップを歩むような考え方はなかった。」とアメリカレコーディングへの挑戦を説得した理由を述べている。この誘いを受けるには、スピネッタにはもう一つの動機があった。インビジブルの元メンバーであり、スピネッタがジャズに進出した当初の主力メンバーの一人であったベーシストのマチ・ルフィーノが明らかにしている。
「このアルバム(A 18' del sol)は、ほとんど演奏されず、全曲演奏されたこともないアルバムでした。レビューを読むと、曲によっては他のギタリストを探したほうがいいと言われ、まるで自分には無理だと言われているようで、スピネッタにとっては非常に悔しい思いをしました。だから彼はすぐに別のことに移って、アメリカでOnly love can sustainをレコーディングしに行ったのです。」
CBSは10万ドルという当時としては多額の投資を行い、スピネッタは一流の音楽家と技術者、そして100人近いメンバーからなるオーケストラを手に入れることができた。このアルバムには、パウリーニョ・ダ・コスタ、アレックス・アクーニャ、テリー・ボッツィオ、アブラハム・ラボリエル、ジェイムス・ギャドソン(!)などのセッション・ミュージシャンや、ジョン・レノンやフランク・ザッパと仕事をしたことのあるアレンジャー、トリー・ジートなどが参加した。
プロデューサーはジョージ・バトラーで、70年代ブルーノートの名盤の多くをマイゼル兄弟と共に作り出していた。ドナルド・バード、ボビー・ハンフリー、マリーナ・ショーのこの時代のアルバムをイメージするだけでも、「Only love can sustain」に通じる音が容易に浮かぶ。それまでのスピネッタの活動に比べると、表面的にはシルキーなサウンドにはなっているが、インヴィシブレと「A 18’ del sol」にあったジャズテイストがこのアルバムでもベースになっているのが分かる。スピネッタ・ハーデ以降のスピネッタの音楽性を考えれば、「A 18’ del sol」と「Only love can sustain」の二枚にあるジャズ感は、クロスオーバーなジャズポップアルバムとして捉えられる(フュージョンとも言えるが、安易なフュージョンアルバムとは一線を画している)。
当時のアメリカでの状況についてスピネッタ曰く「空港に着いたらレコード会社がリムジンを用意してくれた」という話は、プロジェクトへの資金投入の大きさを物語っていた。
残念ながらこのような規模の制作では、スピネッタが個人的に決定したり実行したりする可能性はかなり低くなり、アルバムはスピネッタの個人的な刻印が薄れた商業的側な面が強調された。スピネッタがアルゼンチンから持ってきたデモは、自分とリト・ビターレとグスタボ・バステリカが参加して録音されたものだったが、会社としては「サムシング・ビューティフル」にバステリカのギターソロを入れることにとどめられてしまった。スピネッタは彼の特徴であるメロディを変えずに歌うことを要求され、「それぞれの曲を10回くらい歌わされた」と数年後にバステリカが当時の様子を明かしている。このアルバムには、ジノ・ヴァネリの「Omens Of Love」など、他人が作曲した曲が収録されており、AOR的なポップ・ジャズ・サウンドが聴ける。このアルバムには、ギジェルモ・ヴィラスの詩にスピネッタが音楽をつけた「Children of the Bells」も収録された。スピネッタはこの結果に満足せず、レーベルとの契約を解除してしまった。
1979年にアメリカで録音され、彼のアルバムの中で唯一英語詩のみで、スピネッタをアメリカ市場に導入するプロジェクトの一環として行われたが、成功とは程遠い結果に終わる。そして三つのインターリュード「Jade」は、スピネッタに次のバンド名の構想をもたらす。
この結果に不満を持ったスピネッタは、契約を解除した。その過程で、ギジェルモ・ビラスとは感情的にも疎遠になり、その時から二人は友人ではなくなってしまった。アルバムのインナースリーブには、サンクス欄に当時アメリカに住んでいて、スピネッタと一緒に過ごしたピノ・マローネとエデルミロ・モリナーリの名前が書かれている。アルメンドラ再結成の逆転劇は、この旅で作られたという伝説がある。
ジャケットのイラストは山下達郎や松任谷由美、吉田美奈子のジャケットも手がけていたペーター佐藤によるもの。描かれているのは女性二人の顔だけにも関わらず、ボンテージを想起させるような倒錯したエロチシズムを感じさせる。
少しばかり脱線になるが、アメリカ国外のミュージシャンによるアメリカレコーディングのサンプルとしてエブリシング・バット・ザ・ガールのトレイシー・ソーンがアメリカでレコーディングしたアルバム「ランゲージ・オブ・ライフ」の様子を引用したい。
「この時一緒に仕事をしたミュージシャンたちは、私たち自身の背景や、あるいは私たちが登場して来た我が英国の、ほとんど極秘事項めいたインディーシーンの動向などについては、どんな予備知識も持ち合わせていなかった。だから、今まさに自分たちで吹き込もうとしているレコードについて、その主役である私たちの思考がそもそもどれほど複雑な渦を描いて着想されて来たものなのかという点を把握することさど、いやそれどころか、まずそれを理解しようとしてみることさえ、多分彼らには難しかった。」
「レコーディングメンバーの彼らたちは皆、八十年代中期以降のここアメリカのジャズとソウルとを混淆させたタイプの、だからいわゆるフュージョン系の作品群の持つリズムなりサウンドなりの考え方を目標としており、七十年代などむしろ陳腐で古臭いくらいに見做していたのだ。」
「一方で近年起きた様々な技術革新についての彼らの見解は、せいぜいが線香花火程度のものであると受け止めているかのようだった。つまりはゴミみたいなもので、時にはあまりにポップすぎるから、真剣に作られたレコードの中に登場して来るのはあまりよろしくないと考えていたようなのだ。ヒップホップやハウスのビートなど、、所詮ガキどもの玩具であるといった具合だ、だから全体としてこの場は、彼らが私たちに、ではいよいよ”大人のためのレコード”というものの作り方を一からお教え致しましょうかとでもいった雰囲気だったのである。」
「またほかの場面では、この頃よく耳に入って来ていたキャヴァレーっぽい感じのビートが俎上に載せられたこともあった。やりながらも彼らは明らかに、こんなの哀れ極まりないとでも考えているようだった。
『”ニュー・ジャック・スウィング?”』
やはり彼らは口を揃えた。
『そんなのそれこそ、ジャックのしたてのくそみてぇなもんだろう』
しかし結局のところ我々は今いわば彼らの土壌にいるのだった。そもそもがこのアメリカまでやって来たのも、彼らが売りに出しているそういうものを買うためだ。」
スピネッタとトレイシー・ソーンの話に共通するのは、バンドではないミュージシャンが現地のミュージシャンを雇うような、大きな予算のかかったアメリカレコーディングでは主役にとってコントロール不能になることだった。自己表現を現地のミュージシャンを使って拡張するのではなく、ミュージシャンのスキルを買うことで彼らのプレイアビリティに沿ってレコーディングが行われていたということだった。例えばスティーリー・ダンが莫大な予算を投じながら、長い時間をかけてカリフォルニアのミュージシャンを自分たちのコントロール下に置いて、自身の表現に寄せたのとは対照的な出来事だった。トレイシー・ソーンはわざわざアメリカにまで来てそれまでと同じ表現をするのに意味を見出せず、流れのままに楽しむことにした。一方スピネッタは出来事を受け入れられず、アルバム一枚をレコーディングしてアメリカ進出を破棄しアルゼンチンへ戻る。
70年代の終わりは不穏な出来事で締めくくられ、80年代の始まりはアルメンドラの復活とキャリアの新たな起点となるスピネッタ・ハーデの活動からスタートする。
出典・参照元
https://es.wikipedia.org/wiki/Invisible_(banda)
https://es.wikipedia.org/wiki/Invisible_(%C3%A1lbum_de_Invisible)
https://es.wikipedia.org/wiki/Invisible_(%C3%A1lbum_de_Invisible)
https://web.archive.org/web/20160304193602/http://www.jardindegente.com.ar/index.php?nota=prensa_242
https://www.pagina12.com.ar/diario/suplementos/espectaculos/3-142-2005-08-16.html
https://es.wikipedia.org/wiki/Durazno_sangrando
https://es.wikipedia.org/wiki/El_secreto_de_la_flor_de_oro
https://www.laizquierdadiario.com/Invisible-a-cuarenta-anos-de-Durazno-Sangrando
https://www.pagina12.com.ar/diario/suplementos/espectaculos/3-36713-2015-09-20.html
https://www.taringa.net/+spinetta/entrevista-a-spinetta-1986_1g0h4o
https://es.wikipedia.org/wiki/El_jard%C3%ADn_de_los_presentes
https://es.wikipedia.org/wiki/A_18%27_del_sol
https://www.pagina12.com.ar/diario/espectaculos/6-20810-2003-05-31.html