【映画】ヴェルヴェット・ゴールドマイン Velvet Goldmine/トッド・ヘインズ
タイトル:ヴェルヴェット・ゴールドマイン Velvet Goldmine 1998年
監督:トッド・ヘイン
1998年当時、ブライアン・イーノの「Here comes the warm jets」にハマっていた僕は、劇場の大音響で鳴らされる「Needles in the camel's eye」に心が躍った事をよく覚えている。しかし四半世紀ぶりに再見した本作で覚えていたのはその部分だけで、映画の大半は忘れてしまっていた。久しぶりに観た印象も実在のミュージシャンに比べると、俳優陣は魅力に欠けるという事が上書きされただけだった。ボウイやイギー・ポップ、ルー・リード、ミック・ロンソンらのイメージを混ぜ込んだキャラクターの造形はイミテーションの枠を超えることなく、矮小化されてしまっている。
70年代前半に一世風靡したグラムロックを扱った映画ではあるが、90年代はジギースターダスト時代のデイヴィッド・ボウイが再評価されていた頃で、80年代以降ののボウイはセルアウトした存在というイメージが強かった。当然そんな描き方をボウイが承認するわけもなく、ボウイの楽曲は一切使われていない。ボウイの楽曲でもある映画のタイトルのヴェルヴェット・ゴールドマインにのみボウイの痕跡が残る結果となった。ボウイが亡くなった今、過去の音源とともにジギー時代から、シンホワイトデューク、ベルリン時代、そしてそれ以降のブレイクした後の時代の再検証も進む中、それらを踏まえると彼の心中もそれとなく察することが出来る。好き嫌いはペンディングするとしても、変わりゆく時代を乗り越えたボウイの軌跡を否定するようなあり方には納得しないだろう。老いさらばえたというよりも、常に鮮度を保ったのがボウイのあり方だったのだから、ジギー時代に固執するのは避けたかったというのが、本音だと思う。その一方で、このころのボウイは抗いがたい魅力にあふれていたのも事実で、「Starman」のテレビ出演の映像を見るたびに言葉にはできない問答無用な性差を超えた魅力がある。
この映画がこのころのボウイの魅力を再現できたかといえば、全く至っていなかったと思う。しかしトッド・ヘインズ監督の「キャロル」を経た視点で観ると、この映画はグラムロックが表面的なテーマではあるけれど、本当のテーマは封建的な社会が変わった瞬間の時代を取り扱ったものだというのが分かる。ヘインズが描きたかったのは、マリー・クワントのミニスカートが象徴する60年代のスウィンギンロンドンを経て、封建的な社会から若者文化へと変化した時代が更に過激に性差を瞬間風速的に超えた時代を切り取りたかったのだろう。実際にインタビューでもそのようなことが語られていた。「キャロル」での洗練された描き方の裏に、一貫したテーマを持った監督だったという証明にもなっている。グラムロックという風俗がもたらした、倫理観を揺さぶる価値観のあり方にこそこの映画の本質があるのではないだろうか。
初見では気付かなかったのが、ニコラス・ローグ監督の作品からの強い影響を感じられた事だった。ボウイはローグの「地球に落ちてきた男」に出演しているが、それよりも「ジェラシー」や「マリリンとアインシュタイン」、「美しき冒険旅行」、「パフォーマンス」と言った作品も含めたオマージュになっていると感じられる。ズームの多用はローグっぽい雰囲気がある。すウィンギンロンドンという点では、写真撮影や乱行シーンにミケランジェロ・アントニオーニの「欲望」があからさまに引用されている。
音楽はブライアン・イーノおよびロキシーミュージックの初期作が彩りを添えている。一部Venus in furs名義でトム・ヨークとジョニー・グリーンウッド、バーナード・バトラーら当時のイギリスのシーンで頭角を現していたメンバーによる即席バンドがカバーした楽曲が流れている。Tレックス、コックニー・レベル、ゲイリー・グリッターなどのオリジナルも流れるが、やはり当時の楽曲の方が色香が感じられる。
映画も音楽も90年代よりも今作った方がよりリアルに作られるんじゃないかなと思いつつ、この時代の天然なまがい物感は当時の空気を凌駕するのは中々難しい気もする。ちなみに主人公のブライアン・スレイドはブライアン・イーノとバンドのスレイドが合体した名前。