世界で一番好きな(のかもしれない)音楽⑩/U2 Zooropa
初めて聴いたCD(あるいはレコード)を再生した時に「なんだよこれ!?」と感じた事がある人は少なくないと思う。というか今時試聴もせずに音楽を聴く事も無いだろうから、世代によってはこの部分が共有できるかいささか疑問ではあるのだけれど、YouTube登場以前は試聴機にお目当てのCDが入ってなければ聴く機会は買うかレンタルしかない。日本盤が出てなければレンタルも無いし、なけなしのお金を払って期待したCDが全く理解出来なくて後悔する事も多々あった。とんでもなく非効率だし、ハズレくじ引いた時の気持ちの落ち込みようと言ったら、中々他に例えようが無いかも知れない。ただ、そんなものでも時間が経つにつれ知識も増えてくると見方が変わったり、そもそもが駄目なりに愛せる様になってくるものもあるから不思議なものである。僕にとってU2のZooropaがまさにそんな一枚だった。
中学生の時、深夜に放映されていたU2のライブドキュメンタリー「魂の叫び」を観てやたら感化された。熱く込み上げるものこそがロックだ!みたいな中学生らしい感動は、今思い返すと微笑ましい。その後サントラ盤を買った時ふと、今はどんな感じなんだろう?と興味が湧いてきた。これらの出来事は94年頃だったと思うのだけど、当時の最新リリースは93年にリリースされた「Zooropa」だった。ジャケの変わりように若干怯みつつもとりあえず聴いてみた。あまりの変わりように「なんだよこれ!?」と突き放されたような気持ちになった。あの時の熱いものは何処へ?
当然彼らの転換点だった「Achtung Baby」をすっとばしてのコレだったので、衝撃というか落ち込みは激しかった。ここにある冷ややかな感触は、今思えば冷戦が終わり、湾岸戦争が起こって、Windows95リリース前のネット以前のデジタルカルチャーを落とし込んだアルバムだったと思う。ブライアン・イーノとの架空のサントラを作るサイドプロジェクトだったパッセンジャーズ(これはこれでなんだよこれ!?と思った。良いアルバムです。)で、攻殻機動隊をイメージしたものがあったように、インターネット前後の新しいカルチャーに対して寛容な姿勢は、結構早い段階で示していたのだなと。因みに「Your blue room」と「Miss Sarajevo」は名曲なのでオススメです。
ホントに今だからこそわかるけれど、訳もわからず触れた事で理解出来るはずもなくもやもやとした感情ばかりに囚われていた。
もうひとつ問題なのが十代にありがちな、ある程度キャリアのあるバンドやミュージシャンに触れる時、新譜から手をつけてしまう事で悪い印象が強く残る事は意外とあるような気がする。今でも覚えているのが、ビートルズのアンソロジーシリーズがリリースされた頃、オリジナルアルバムを聴く前にこれを聴いて「しょぼい」と話してくる友人が結構いた。そりゃあ当然でデモやセッションがメインだから、しょぼいと感じるのも当たり前。あぁそれじゃ無いのに…と言われる度に思っていた。
U2はその後一通りアルバムを聴いて、変遷を知ってどういう流れでここに至ったのかを理解した。イーノが関わり、ベルリンのハンザスタジオでレコーディングされた「Achtung Baby」は、個人的にデイヴィッド・ボウイの「Low」やクラフトワーク、トーキング・ヘッズに繋がるハブとなった。ただこれを踏まえても、「Zooropa」の暗い雰囲気は消化しきれない。ところが見方が大きく変わったきっかけが起きる。ヴィム・ヴェンダースのミリオンダラー・ホテルのオープニングで流れていた「First time」を聴いた時、淡い夜明けの映像と共に体に染み込んでくる感覚を覚えた。アルバムの中でも地味な曲としてしか認識してなかったこの曲が、途端に輝き始め心の襞にじわじわと入り込んできた。
面白いもので、つまらないとかとるに足らないと感じてた物が、視点を変える事で途端に輝きだす事に触れる時、思ってもみなかった世界が広がる。多分文化的なものに触れる事が多い人は、こういった経験は一度二度だけでなく体感してると思う。棚に埋もれていたものが、変えがたい魅力をいきなり発する場面は多くの人が経験しているのでは無いだろうか?
この曲の出来事の後、どうにも手放せない一枚に成り上がった。歪なアルバムだけれど、元々ジ・エッジのソロプロジェクトとしてスタートして、紆余曲折の末U2のアルバムとしてリリースされたのだから、ある種の暗さという統一感はありながらも散漫なイメージはつきまとう。
とはいえ、ヴェンダースの「時の翼にのって」の原題タイトルにもなった超名曲「Stay」(簡潔だけれど奥深いボノの歌詞は凄い)や、ダサかっこいいU2流ガラージュハウスの「Lemon」(これも歌詞か良い)、アメリカ趣向からヨーロッパ趣味への変化というボウイさながらの変化を告げる抑制の効いた「Zooropa」など意外と良曲が多い。マイ・ブラッディ・ヴァレンタインのエンジニアを務めたFloodが参加していたり、シューゲイザーやオルタナというよりもインダストリアルな側面もあるアルバムでもある。U2=暑苦しくてダサいイメージは否めないけれど、そのダサさも受け入れて聴くとすんなり聴けると思う。
ザ・スミスやコクトー・ツインズ、キュアーなど昨今のアメリカでの80年代イギリスのインディの受け入れられ方をみていると、リアルタイムでビッグヒットを出したのか否かが分かれ目になっている様に感じる。多くのUKインディがアメリカ進出を試みながらも、果たせぬまま解散した事で80年代のインディシーンの限界が示されてしまった過去がある。しかし、それらのバンドは現在ではある意味英国文学的な捉え方(文学的な音像とも言える)がされていて、クロエ・ジャオの「ノマドランド」で、ザ・スミスの歌詞が登場したように、この頃のヒットは飛ばせなかったバンドの影響はこの十年で存在感を増している。特にキュアーの存在感は、アメリカに留まらず、公開が控えているフランソワ・オゾンの「Summer of 85」の様な映画にも影響を及ぼしている。
一方、アメリカでヒットを飛ばしてリアルタイムで受け入れられたバンドの多くはそういった扱いはされてないのではないだろうか。モリッシーの歌詞や、キュアーの昨今の日に日に強まっている存在感は、長い歴史を抱えたイギリス(ヨーロッパ)らしさというアメリカの人々が抱えたヨーロッパコンプレックスの一端としての出来事なのかもしれない。アメリカ一般大衆まで広がらなかったからこそ、ヨーロッパ的価値観が通奏低音として一部の人の中で根強く残り、一気に表出しているようにも思われる。ザ・スミスとキュアーはUSインディやフランク・オーシャンへの影響も大きい。そう考えると、リアルタイムでビッグヒットを飛ばしたバンドは、一般大衆の中で消費尽くされていて、文学的な受け取られ方は難しいのかもしれない。平易な言葉で語るボノの歌詞は、読み返すとかなり面白いのだけれど、文学性は低いのかななんて思ったり。いなたいポストパンクから出発したこのバンドは、アメリカで売れてた事が足枷になっているバンドなのかも知れない。
そしてU2はUKのバンドではなく、アイルランドのバンドというオチがつくのだけれど…。
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