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日本のいちばん長い日/岡本喜八
タイトル:日本のいちばん長い日
監督:岡本喜八
玉音放送が流れるまでの長い一日
第二次大戦が終局を迎えようとする8/14から8/15にかけての24時間がとにかくスリリングなんだけど、終わらない長い一日の倦怠感と、真夏の暑苦しさもじんわりと肌に纏わり付く。
岡本喜八による極限までに切り詰めたカットは今見ても十番にスピーディ…というよりも現代の切り詰めたカット割に近いため2時間を超える上映時間の割にすんなり観ることができる。観客は当然結末は分かった上で観ることになるものの、一歩間違えば陸軍のクーデターが成功するかもというギリギリなラインが描かれていて、そのバランスが凄い。玉音放送が録音されるまでの流れから、後半の玉音放送を録音したSP盤(ダイレクトカッティングだ!)を巡る宮城を中心とした攻防は単に「ポツダム宣言を受け入れて玉音放送を流した」とさらっと歴史に触れただけでは見えてこないものがある。加速の付いた車がすぐには止まらないように、軍内部の各所で暴走が起きていたという事が具体的かつ克明に描かれている。戦争の終わりを受け入れようとする上層部と、終わりを告げられながら受け入れることが出来ない下層部、愛国という同調圧力に盲信する国民のコントラストが中々に重く響き、戦争の名の下に一つの目的に沿って行動してきたはずが、それぞれ全く異なる視点を持っていて、そのズレから行動が掻き立てられる状況が作られていく。その中でも一際目を引くのが三船敏郎演じる阿南陸軍大臣で、映画の始めと終わりでキャラクターの印象が全く異なる。阿南というキャラクターが持つ感情の流れが、終戦というものをどの様に受け入れていっているのかが分かる重要なポイントだと思う。
この映画は前半後半の二部構成になっているものの、キャラクター群は三つの階層に分類される。天皇および内閣の人々、軍部の上層部の人々、近衛団など下層部の人々。阿南はこの三つの階層に挟まれていて、抗う姿は諦めへと変化し哀愁を漂わせる。ほぼ動きのない演技の中で、表情だけでなく全身でこの流れをしっかり感じさせる三船敏郎の役所は凄いとしか言いようがない。映画の前半までは「戦争が終わったのに切腹するなんて馬鹿馬鹿しいだろ」と思いながら観ていたものの、いざそのシーンになるとそう言った考えは吹っ飛んでしまった。切腹を肯定するわけじゃなけれど、彼の中で落とし前を付けるにはそうするしか仕方がないと納得する説得力がある。これからの日本の復興を次の世代に明け渡し、自らは戦争という行いの連鎖にピリオドを打つ。いやはやこのシーンは凄い…。
この映画を参考にした映画といえば、庵野秀明によるシン・ゴジラに強い影響を与えているのはよく知られている。構成もほぼ同じで、前半の会議シーンや(シン・ゴジラでは何度も繰り返される会議に苦言を呈する所などが差し込まれる)、後半の戦闘シーンなどベースになっている。早いカット割りも岡本喜八からの影響が色濃い。
(日本のいちばん長い日で井田を演じた高橋悦史と、シン・ゴジラで総理大臣を演じた大杉漣の顔立ちが似ていると思うのは僕だけ?)
政治の季節
日本は戦後、民主化が進み軍国主義や全体主義的な思想から離れ憲法9条と共に歩んできた。けれども昨今の政治の状況をみると、戦中のきな臭い状況に絶対に戻らないとは言い切れないと思う。改憲を進めようとする現政府の行動は戦中の世の中に舞い戻るきっかけになる可能性はゼロではないと感じている。民主化が確立された国とはいえ、民衆主体の政治が行わなければファシズムの台頭と受け取られてもおかしくはないのではないだろうか?「タクシー運転手」や「ペパーミントキャンディ」といった韓国の民主化運動を描いた映画を観て、わずか40年前に隣国では民主化への道を切り開いていたという事は強く印象に残る。最近でも10年代初めに起きたアラブの春や、現在も続く香港の民主化デモなど民主化運動は起こっている。
そして民主主義国家であるアメリカ国内で起きているブラック・ライブズ・マターの運動は、人種差別の下に人権の平等さについて今も民衆が声を上げている。現在アメリカ政府が民衆に対して行なっている事は、今の中国と香港の民主化運動と非常に近いものを感じる。今の日本国内はそこまでの対立には至っていないものの、現政府のいい加減な対応についてすべての人々が参加しなければいけない政治の季節へ突入している事は意識したい。権力者の都合に合わせるのではなく、有権者が声を上げる事で時代を変えなければいけない。
この映画を観ることで軍国主義の異様なファナティックさや、それを盲信する市井の人々の全体主義な抑圧が過去に日本であった事は忘れてはいけない。そのためにも我々は選挙に行き、声を上げる事が大切なのではと強く願う。