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【映画】ファイブ・デビルズ Les Cinq Diables/レア・ミシウス


タイトル:ファイブ・デビルズ Les Cinq Diables 2021年
監督:レア・ミシウス

嗅覚というのは面白いもので、部屋の匂いや食べ物、香水、夏の雨後のアスファルトの湧き上がる匂いなどを嗅いだ時にふと過去の記憶が蘇る事がある。時にはその場に漂っていなくても、ふとした瞬間に鼻の奥に残る香りの記憶が呼び起こされて、忘れていた記憶と共に嗅いだ場所まで頭の中で浮かび上がる事がある。嗅覚が呼び起こす記憶は理性とは別の、突如として目の前に広がる感覚的な肌の感覚に触れる。目に見えないけれど、とても映像的な記憶に立ち返ってしまう。匂いが持つ記憶のトリガーは、視覚や聴覚、触覚とも違った記憶の風景を思い出させる。
本作「ファイブ・デビルズ」はジャック・オディアールの「パリ13区」でセリーヌ・シアマと共に脚本を手掛けたレア・ミシウスによる監督作品。ミシウスは本作を作る上で、嗅覚という目に見えない感覚を描きたかったという。しかし、映画で描かれたのは、匂いの記憶が呼び起こすのは自分が体験した過去ではなく、他人の過去の記憶に迷い込む物語だった。

私が興味を持ったのは、目に見えない感覚に取り組むことでした。見えないものをどう撮るのか?匂いの話であると同時に、過去や秘密についての話でもあります。匂いと記憶を結びつけることで、この映画はジャンルを超えて、この魔法のような次元に到達することができるのです。

entretien avec Léa Mysius, réalisatrice des Cinq Diables avec Adèle Exarchopoulos

物語は異様に嗅覚が鋭い8歳の女の子ヴィッキーが、匂いをきっかけに叔母の過去の時間に迷い込むというドラマになっている。母も父も叔母も、過去に何か大きな事件に巻き込まれた気配を漂わせながら、何が起こったのかを断続的に過去を観ていく事で徐々に明らかになってくる。ヴィッキーが作る匂いの瓶が引き起こす過去の記憶は、両親と叔母が本当に掴みたかった幸せの形を無情にも見せつけられてしまう。

私は小さな魔法の薬を作る、奇妙で孤独な少女というアイデアに強い関心を持ちました。それから、マジックには映画のマジックを指しているものがあり、新しい信念体系を作るというものです。ここで私は魔法をかけました。しかも、マジックは普遍的なもので、すべての人に共通するものです。

entretien avec Léa Mysius, réalisatrice des Cinq Diables avec Adèle Exarchopoulos

監督はインスピレーション元としてギュンター・グラスの原作を映画化したフォルカー・シュレンドルフの「ブリキの太鼓」を挙げている。3歳で成長することを止め、子供の体のまま年齢を重ねていく異形のファンタジーであるこの作品を挙げていたのは子供とファンタジーという共通性はあるが少し意外に感じた。

子供が記憶の中に飛ばされるという、ファンタジーがかなり早く入ってきました。特にインスピレーションを受けた作品があります。フォルカー・シュレンドルフ監督の『ブリキの太鼓』(1979年)で、叫べばガラスを割れる子供が、4歳で成長を止めることを決心します。ヴィッキーが自分の記憶でないところに飛ばされるのは、この作品からヒントを得ました。ふらふらしているので、面白いなと思いました。そして明らかに、自分の知らない過去の重みに押しつぶされそうになっている少女についても語ることができます。

Léa Mysius (Les Cinq diables) : "Adèle Exarchopoulos est une actrice extraordinaire"

〜ここからネタバレ〜

正直鑑賞直後はあまり複雑な映画だとは思わなかった。ヒントになる台詞や出来事がちゃんと描かれていたので、キャラクターそれぞれの背景や想いを理解しながら鑑賞した。タイムリープものと謳われているけれど、過去に戻ってやり直すわけでもなく、傍観者としてそこにあった出来事を見るだけなのでちょっと違うかなと。ラストにいきなり登場する少女をヴィッキーの子供と捉えると、ただ過去の記憶に潜り込んでいるだけで、円環構造というよりも、直線的な時間軸の中で過去に遡っているように感じられた。ヴォネガットとガルシアマルケスが描いていたような世界観を混ぜ込んだような感じというか、そういう造りだったんじゃないかと思う。
SF的な要素よりも、ヴィッキーが直面した母がかつて愛した叔母との恋愛や、田舎の人々がかかえる同性愛と人種差別への偏見、事件を起こした人間への憎しみなど人と人との関係がこの映画の根幹にある。

(ジュリアの顔が腫れていた事について)何が起こったのかの説明はしない。そこがミステリアスなところです。隠して少しずつ見せるというのが主な考え方でした。顔が少し傷んでいて、とても美人だということがすぐにはわからないところがよかったです。また、ジャンル映画的な側面もあります。顔が腫れ上がった人が来たら、すぐに悪い人だと思いますよね。匂いとの関係、過去との関係、記憶との関係......見せる映像の裏に隠されたイメージをどう見せるか、というのが実はこの映画の原則なんです。
私は現代の家族、つまりモダンな家族を作りたかったのです。私の映画では、それ自体が主題ではありません。家族のことであり、彼らは他の人と同じように家族の問題を抱えていて、それは肌の色に影響されるものではありません。一方で、現代のフランスの話なので、本当はフランスの、社会的、政治的な問題を扱ってほしい。だから、すべてがうまくいっている、問題がない、ということにはならないのです。だからこそ、村には人種差別や同性愛嫌悪があり、息苦しい風潮があることを示すと同時に、みんなの受動性を示すのです。特に極右の言葉が矮小化されている現状では、これは重要なことだと思いました。

entretien avec Léa Mysius, réalisatrice des Cinq Diables avec Adèle Exarchopoulos

思い返していくと、この関係性から生み出されるかつて望んだ幸せの形が崩壊し、諦観の中で日常を取り戻そうとした挙句、登場人物それぞれが歪んだ形に着地してしまった悲劇が鑑賞後感に響いてくる。ラストで母は元恋人の叔母を選び、ヴィッキーと父は二人の家庭を築こうとしているように思える。家族が離れ離れになってしまったからこそ、突如少女が現れて過去に何があったのかをヴィッキーと同じように傍観していたのではないだろうか。
それぞれの視点で読み解き直すと、観ていた時には気がつかなかった点に気づいてくる。
劇中、車のシーンで流れカラオケでも歌われるボニー・タイラーの「Total Eclipse of the Heart」の歌詞も彼女たちの心情を表していた(奇しくも今日は皆既月蝕だった)。

あの頃は人生に光が溢れてたのに
今では暗闇の中に愛があるだけ
もう何も言えない
心から太陽のような幸せが
すっかり消えてしまったから

こっちを向いて,その輝く瞳を見せて欲しい

http://oyogetaiyakukun.blogspot.com/2013/10/total-eclipse-of-heart-bonnie-tyler.html?m=1

事の顛末を知った後にこの歌詞を読むと、10年前と今起きている事がオーバーラップして切実な想いに至っているのがよく分かる。
惜しむらくは、肝心の嗅覚の扱い方がレーダーのような記号的な使われ方をしていて、その点は少し雑な印象が残った。感情に結びつくような描かれ方がされていれば、映画のニュアンスももっとふくよかになるのではと感じた。

今回、試写鑑賞後にyoutubeチャンネル「おまけの夜」で知られる柿沼キヨシ氏のトークショーが催された。

オープニングのキューブリックの「シャイニング」からの引用と超能力、ジョーダン・ピールの「Us」からの引用、赤と青の色が持つ意味など丁寧な語り口に、程よい復習の場となり中々楽しかった。


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