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ルイス・アルベルト・スピネッタの軌跡⑨/家の中のスピネッタ 家族と宅録の時代

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・家の中のスピネッタ

スピネッタの80年代の活動を振り返ると、スピネッタ・ハーデと並行してソロ活動を行いながら、新しいテクノロジーの導入や新世代の影響を受けたことで、個々のプレイアビリティに頼るジャズロック/フュージョンから、80年代らしい整理されたリズムとエレクトロニクスを導入したスタイルに変化していた。そして本人も予想しなかった「Téster de violencia」のヒットを迎えたことで、シーンに再び存在感を示すことになった。スピネッタは90年代に入ると、バンドから徐々に距離を置き自宅スタジオでひとりでレコーディングするスタイルに移行する。

アルゼンチン国内の状況は、1989年にカルロス・メネムが大統領に就任すると、親米的な新自由主義(ネオリベラル)を押し進め、石油・郵便・電気・ガス・水道など公営企業のインフラを次々と民営化し、多くが外国資本の傘下に入ることになった。フォークランド紛争で対立していたサッチャーは、戦争を機に支持率が上昇したことで、新自由主義が推し進められイギリス国内の格差を広げたことで失業率が上がる結果となった。アルゼンチンも同様に新自由主義を推し進めた事で失業率が上昇しインフレを起こすことになる。通貨レートを1ドル=1ペソに固定する事で外貨をアルゼンチン国内に流し込んだが、アルフォンシン政権が軍事政権の頃の負の遺産と共に経済が悪化する一方、新自由主義により経済は表向きには回復しているようにも見えた。しかし、外国企業が参入してことにより、国内の失業率は上がり格差が広がる結果となった。南米諸国が先進国へ成り上がりたいという気持ちを抱えていた時代ではあったが、経済を優先することで国民がおざなりになり国内の経済不安が拡大する結果となり、ハイパーインフレと共に中間層の人々が貧困へと追いやられた時代となった。
ハイパーインフレの影響で、貧困層の割合は1989年初頭の25%から同年10月には47.3%と過去最高を記録。暴動や略奪が発生し早期の政権交代が行われることになった。

・Luis Alberto Spinetta/Exactas (En Vivo) 1990

リリース:1990年
Que ves el cielo El jardín de los presentes収録 Invisible
Amor de primavera (José Alberto 'Tanguito' Iglesias/Hernán Pujó)
Los Simples収録 Invisible
Parvas Almendra Ⅱ収録 Almendra
El marcapiel (Spinetta/R. Mouro) Téster de violencia収録
Frazada de cactus  未発表曲
Plegaria para un niño dormido Almendra収録 Almendra
Sicosisne  未発表曲
La cereza del zar Pescado 2収録 Pescado Rabioso
Pequeño ángel La la la収録 Spinetta/Paez
La herida de París Los Niños Que Escriben En El Cielo収録 Spinetta Jade

Luis Alberto Spinetta: Guitarra y voces
Guillermo Arrom: Guitarra
Juan Carlos "Mono" Fontana: Teclados
Claudio Cardone: Teclados
Javier Malosetti: Bajo
Marcelo Novati: Batería

スピネッタのソロでは初めてとなったこのライブアルバムの構想は、前作「Don Lucero」をオペラ座で発表した時のライブの音質の良いテープを聴いたことから、ライブアルバムを作ろうというアイデアが生まれた。音響の良いホールで演奏しようという提案からライブ録音の計画が具体化され、1990年8月末にスピネッタは、自分のバンドと一緒に、ブエノスアイレス大学のExecutive and Natural Sciences学部のAula Magnaの満員の観客の前で演奏を行う。インフレの到来で80年代末にアルゼンチンの中産階級のほとんどが経済的困難に見舞われた時期であった。80年代末のスピネッタは大きな損失となった詐欺に遭い、ツアー中にバスが火事になり、結果楽器や機材が失われた事で大舞台から遠ざかってしまい、レコーディング業界からは邪魔者扱いされてしまっていた。
伝説的なスタジオ「デル・シエリート」の創設者で、スピネッタの親友であり、「Exactas」の共同プロデューサーでもあるサウンドエンジニアのグスタボ・ゴーヴリは、ライブアルバムのアイデアがどのようにして生まれたのかを振り返っている。

「88年、スピネッタは3枚のアルバムを制作するDBNと契約して、前金を受け取っていました。そのお金でオープンテープレコーダーとコンソールを購入し、イベラ通りのビラ・ウルキーザ(現在のラ・ディオサ・サルバヘがある場所)に持っていたリハーサルルームに自分のスタジオを設置しようと計画していました。アメリカから機材を持ってくる男にお金を渡し、その男がお金を持って消えてしまったので、彼は騙されたのです。事情を知った私は、彼に電話をかけ「デル・シエリートで録音して、できたらお金を払ってくれ」と申し出ました。彼にとっては苦しい時期だった。彼は多くの問題を抱えていて、私は彼に手を差し伸べたかったのです」
グスタボ・ゴーヴリ

そこでスピネッタは、数年前にレコード会社を設立して新しいアーティストを送り出していたデル・シエリートのオーナーと組むことを思いついた。スピネッタが曲を提供し、ゴーヴリはスタジオを提供して3枚のアルバムがデル・シエリート・レコードから発売される予定だった。3部作の1作目は「Téster de violencia」、2作目は「Don lucero」、そして3作目は「Pelusón of milk」となるはずだったが、その途中でアクシデントが起こる。

「スピネッタはDBNを辞めたがっていた。彼は幸せではなかった。当時、彼は新しいアルバムを録音するための曲を持っていましたが、それらを残して別の会社と別の条件で交渉することを望みました。DBNとの契約を果たすために、(契約消化のための)ライブアルバムを作ることにしたのです」
グスタボ・ゴーヴリ

Ciudad UniversitariaのPabellón IIで行われたこの2つのショーの日は、30日と31日に行われた。バンドはドラムのマルセロ・ノヴァティ、ベースのハヴィエール・マロセッティ、ギターのギジェルモ・アーロム、キーボードのクラウディオ・カルドーネとモノ・フォンタナといったメンバーで敢行された。

学生センターと大学エクステンション事務局が販売する学生価格だったチケットのこのライブは、スピネッタの幅広いキャリアの中で、あまり演奏されることのなかった古い曲を再演するというものだった。

「ルイスは過去に多くの問題を抱えていました。彼は安易に過去の曲に頼ることを好まなかった。コンサートでリクエストされた曲はいつも断っていた。しかしこのライブアルバムにはそのような曲が含まれています。観客のいる場でのグレイテスト・ヒッツのようなものです。彼はそういったものを、自分の芸術的地位や芸術的な観点からのセルアウトだと考えていた。だからこそ、彼が今までライブアルバムをリリースするのに時間がかかったのではないか。意見が合わなくてとても面白かったです。結局のところ彼は疲れてしまって、私に「グス、何かやろうぜ」と言いました。演奏してほしい曲をリストアップしてそれを演奏する。ただそれだけのことです。」
グスタボ・ゴーヴリ

自分の作品を守ろうとするスピネッタの粘り強さとの選曲は、2人の間での難しい交渉となり、ゴーヴリは「アルメンドラ」「ペスカード・ラビオーソ」「インヴィジブレ」の時代の曲を入れたいと考えていたが、スピネッタはより現代的なレパートリーで考えていた。

「そして、そのリストを彼に提示した。もちろん「Que ves el cielo」、「Plegaria」、「La cereza del zar」、「Parvas」なども入れていましたが......ルイスが希望するラインナップをみると「君はどれだけヒッピーなんだ!」と言ってくるんです。彼はスピネッタ・ハーデの曲か、それ以降の曲を演奏したいと言っていたので、「La herida de Paris」、「El marcapiel」、「Pequeño ángel」、そして未発表の「Frazada de cactus」と「Sicocisne」の2曲をバランスよく入れ込むことにしました。」
グスタボ・ゴーヴリ

Exactasの曲目の中に、ホセ・アルベルト・イグレシアス(タンギート)とエルナン・マルセロ・プジョがオリジナルで作曲した曲「Amor de primavera」がある。

「『Amor de primavera 』は彼が決めたもので、その理由はわかりません。春にアルバムが発売される予定だったからかな。自分の曲ではないから過去を振り返るような感覚になるという問題はなかった。でもこのバージョンはとてもいいですよ。アルバムの中で一番気に入っています。」
グスタボ・ゴーヴリ

このライブがリスキーだったのは、当時のロックバンドのほとんどがオブラスなど大きな会場で演奏していた時代に、公立大学で演奏することは、リスクを伴う大胆な行動だった。しかしこの賭けは結果的に成功した。

「当時、広告関係の仕事をしている友人のホラシオ・アルバと一緒に仕事をしていたのですが、彼が「ここにバナーを貼れば誰でも知る事ができる」と言って、学部でコンサートをすることを思いつきました。それに、人々はすでにそこにいて、どこにも行く必要がなく、場所は無料で、大学の聴衆はいつもスピネッタを受け入れていた。このホールは音響効果が優れているので、その利点を生かしてアルバムをライブで録音することにしました。その頃、彼は経済的にかなり回復しており、有名なマシンを購入することができた。それで私が持っていたモバイルスタジオをセットアップして、デル・シエリートでミックスしました。」
グスタボ・ゴーヴリ

スタジオでミキシングをしていた当時の様子を、ゴーヴリ自身がカメラで撮影し、数年前にYouTubeで公開した映像がある。黄色いトヨタ・セリカのクーペで到着したスピネッタは、車のトランクから機材を降ろし、リラックスした雰囲気の中でエンジニアと一緒に作業をしている様子が映し出されている。

ゴーヴリは80年代前半に『Los niños que escriben en el cielo』(1981年)、『Kamikaze』(1982年)『Mondo di cromo』(1983年)というアルバムでスピネッタと仕事をしていた。

「彼と一緒に仕事ができてとても良かったです。彼は膨大な創造力を持っていて、結果として何を求めているかを完璧に把握していて、それを要求していたからです。我々は少しずつ友人になり隣人にもなりました。彼は83年に家族全員でルロアに移住して、2、3年そこに住みました。私の妻であるフローキが、彼の知らないインド料理やベジタリアン料理を作っていたので、彼は夢中になっていました。その料理に興味を持ち、最終的にはものすごい料理人になってしまった。よく食事に誘ってくれて、超エキゾチックなものを作ってくれたのを覚えています。
ルイスは芸術的誠実さの世界チャンピオンだった。彼にとって、それは神聖な価値であり、最も重要なものだった。そして、譲歩したくないがために、非常に高い代償を払うことになった。業界はしばしば彼に背を向け、最終的にはメディアや一般大衆にも背を向けた。それは、いつも彼に大きな負担をかけていた。彼は決して、観客に余裕のあるアーティストではなかった。小さな会場で演奏していたので、レコードもチケットもあまり売れませんでした。彼は、そのキャリアと音楽的な質の高さで尊敬されていましたが、経済的にも人気的にも、それが反映されることはありませんでした。今日、誰もがスピネッタのことを語り、神格化している。しかしスピネッタは彼の功績が認められているのであって、亡くなった事での架空の功績が認められたのとは違う」
グスタボ・ゴーヴリ

「Exactas」と同日には「Téster de violencia」と「Don Lucero」から抜粋したコンピレーションアルバム「Piel de piel」がリリースされている。

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・Luis Alberto Spinetta/Pelusón of milk 1991

リリース:1991年
Seguir viviendo sin tu amor (3:15).
Lago de forma mía (3:09).
Ganges (4:00); Guillermo Arrom: guitarra líder.
La montaña (3:18); Claudio Cardone: teclados; Guillermo Arrom: guitarra líder.
Panacea (2:35); Guillermo Arrom: guitarra acústica.
Domo tu (3:22); Luis Alberto Spinetta: teclados (cuerdas); Mono Fontana: teclados y ambiente.
Cada luz (4:36).
Bomba azul (4:11); Mono Fontana: arreglos de teclados.
Cielo de ti (3:34); Luis Alberto Spinetta: guitarra de 12 cuerdas; Javier Malosetti: arreglo y guitarra acústica; Guillermo Arrom: guitarra acústica.
Cruzarás (5:27); Claudio Cardone: teclados.
Hombre de lata (2:42); Guillermo Arrom: arreglo y guitarra líder; Claudio Cardone: teclados.
Jilguero (4:02).
Ella bailó (love of my life) (4:24); Javier Malosetti: bajo.
Pies de atril (4:23).
Dime la forma (5:32); Claudio Cardone: teclados; Javier Malosetti: solo de bajo.

Luis Alberto Spinetta: guitarra eléctrica, guitarra acústica, bajo eléctrico, secuenciador (batería electrónica), samplings y voz, teclados (cuerdas) en «Domo tú», guitarra de 12 cuerdas en «Cielo de ti».
Juan Carlos Mono Fontana: teclados y ambiente en «Domo tú», arreglos de teclados en «Bomba azul».
Javier Malosetti: arreglo y guitarra acústica en «Cielo de ti», bajo en «Ella bailó (love of my life)», solo de bajo en «Dime la forma».
Guillermo Arrom: guitarra líder en «Ganges», «La montaña» y «Hombre de lata», arreglo en «Hombre de lata», guitarra acústica en «Panacea» y «Cielo de ti».
Claudio Cardone: teclados en «La montaña», «Cruzarás», «Hombre de lata» y «Dime la forma».

Los créditos del álbum también reconocen la participación de Adrián Bilbao (grabación y mezcla), Aníbal "la Vieja" Barrios (asistencia), Gustavo Gauvry (micrófono, compaginación en DAT y videocámara), Eduardo Martí (fotografía) y Mario Franco (arte de tapa y diseño).

1991年。この年にソビエト連邦が消滅し、世界は1990年代の最初の数年間に突入した。スピネッタは「Aún quedan mil muros de Berlín(ベルリンの壁はまだ1000枚残っている)」と 「Pies de atril」で歌っている。アルゼンチンでは1989年と1990年にハイパーインフレが発生し、国民のほとんどが貧困に陥った。1989年にアルゼンチンの通貨が切り下げられたことにより、何千人もの人々が貧困に陥った。
1990年に「El sonido primordial」と題した音楽クリニック(1990年)を発表し本として出版されていた。

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1990年の冬に行われた国内の様々なロックミュージシャンを集めたサイクルの枠組みの中で行ったクリニックについて書かれている。ジョン・ケージに強い影響を受け、「Téster de violencia」に収録された「Parlante」にはこのアイデアが多く含まれている。

「Spinetta de entrecasa(家ごもりのスピネッタ)」と言われる時期にあたるアルバム「Pelusón of milk」は、80年代後半からの活動の後、コンサートで感電したことなどらがきっかけとなり、スピネッタは自分のバンドのミュージシャンたちと比較的距離を置き、家族というプライベートな空間に閉じこもる。1990年末、妻のパトリシアが娘ヴェラを妊娠し、家族が見守る中、自宅での自然分娩での出産の経験は家族全員の在り方に影響を与えた出来事だった。このような状況の中、スピネッタは自宅のスタジオで「Pelusón of milk」を作曲・録音し、タイトルはこの状況が反映されていた。スピネッタはバンド活動や公の場から距離を置いた事で、家庭生活に専念しながらアルバムの制作を進めていた。

「今回のアルバムは、すべてを一人で行ったため、時間がかかってしまいました。私のバンドのミュージシャンが介入している部分もありますが、ほとんどは自分でやっています。ペルソンは裏方のスピネッタのような存在です。アコースティックな曲もあるし、メロディーも新鮮だし、素材のセレクションもいい。」
ルイス・アルベルト・スピネッタ

アルバムの録音にはローランドのW-30というサンプラー機能を持つキーボードが中心となり、幾人かのミュージシャンを起用しながら大半を一人で作り上げたアルバムとなった。ローランドのW-30は「ミュージック・ワークステーション」と呼ばれたキーボードで90年代に一世風靡しシンセサイザーとシーケンサー、サンプラーが合わさったものだった。内蔵のフロッピーや、SCSI(スカジー)で外部のCD-ROMやハードディスクといった記録媒体や、PCと接続できる代物だった。2000年以降にマッキントッシュパワーブックなどが低下価格化しDAW (デスクトップオーディオワークステーション)が台頭する以前の時代に活躍した機材のひとつである。

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このアルバムは、1991年6月から9月にかけて自身のスタジオ「La Diosa Salvaje」で録音されたが、スピネッタはこのアルバムを「古いフォステクスのレコーダーよりも、もっとモダンなフォーマットで録音すればよかった」と後悔している。

「不安定な楽器を使って、まるで本物のような音に絞り込んで作られています。同じレコードを今の機器で録音したら、信じられないくらい良い音になるでしょう。しかし、お金がなかったから時代に合わせなければなりませんでした。」
ルイス・アルベルト・スピネッタ

この頃の機材はデジタル録音技術の過渡期にあたり、W-30はサンプリング周波数が12bit/30kHz(内部D/Aは16bit)で、現代の録音スペックのスタンダードになっている24bit/48〜192kHz(ハイレゾ)の録音から考えればサンプリングできる容量はまだ小さくダイナミクスも小さい。アルバム全体のダイナミクスが平坦に聴こえるのは、こう言った機材の録音スペックの低さが原因となっていると思われる。
スピネッタ以外のゲストミュージシャンはモノ・フォンタナ、クラウディオ・カルドン、ギジェルモ・アローム、ハビエル・マロセッティが参加し、「Panacea 」の歌詞はロベルト・モウロが担当した。

タイトルは生まれてきた赤ちゃんへのメタファーとなっていて、アルバムのインナースリーブに書かれた謝辞の中で、スピネッタは「何よりもパトリシアのお腹の中で育つ綿毛のミルクに対する私の愛が、このアルバムにインスピレーションを与えてくれた」と感謝している。フワフワとした赤子のような自然に小さいもののイメージを使用することで、スピネッタのタイトルでは珍しく英語を使い、ミルクによって伝えられる母性的な活力と組み合わせることで意味合いを強調している。

「esperándola a Vera(娘ヴェラを待つ)」状態だった私の人生とリンクしています。それは「Pelusón of milk(綿毛のミルク)」ですから。それらの曲は私の家で作られたもので、妻の妊娠と生まれてくる赤ちゃんを待っていた.... 「Pelusón of milk」に収録されている曲の多くは、私自身のために作ったものです。巨大な中庭をまとめようという試みです。」
ルイス・アルベルト・スピネッタ

アルバムのジャケットはディラン・マルティが担当している。マルティとスピネッタはスピネッタ・ハーデの頃に、アメリカで開局されたMTVに触発されて1982年に「Maribel se durmió」のビデオを作っていたが、本アルバムからの2曲「Seguir viviendo sin tu amor」と「La montaña」のヴィデオクリップも制作している。「Seguir viviendo sin tu amor」のビデオクリップでは、カラーレーザーで照らされた曲を歌うスピネッタの姿が映し出され、「La montaña」のビデオはより凝った台本になっている。ガウンを着たスピネッタが、ロープで縛られた丸太を野原に引きずっていくというもので「自分のイメージを苦労して運ぶ存在」を表現している。 ビデオの最後には、「Trepen a los techos ya llega la aurora(屋上に上がれば夜明けがやってくる)」と歌われた瞬間に家族の様子を映した映像が流れ、冷蔵庫と共に家の屋根に登っていく様子が映し出される。

「ほとんどすべて... Pelusónにはクロスオーバーがあることがわかります。タンゴとボッサ、ジャズ、ロック、フォークをミックスしています。」
ルイス・アルベルト・スピネッタ

アルバムの冒頭に収録されている「Seguir viviendo sin tu amor」は、その年のベストソングとして、スピネッタのキャリア全体で最大のラジオヒットとなった。アルバム全体の雰囲気はアコースティックなサウンドと、サンプリングとシーケンスがおり混ざりつつ私的で穏やかなものとなっている。タイトル通り子供が生まれたことによる穏やかさが内包されている。

・Luis Alberto Spinetta/ fuego gris 1993

リリース:1993年
Escape hacia el alma (3:48)
Yo no puedo dar sombra(3:40)
Nirvana mañana (4:00)
Verde bosque (5:55)
Preciosa dama azul(2:42)
Tocando sin sentir (3:29)
Parado en la sentina (3:49)
Cadalso temporal (4:04)
Penumbra (2:24)
Feroz canción (1:52)
Dedos de mimbre (4:43)
Trampaluz (5:36)
Caspa tropical (4:12)
Oh! Doctor (2:24)
Flecha zen (4:26)
Cordón de perfume (2:12)
Norte de nada (6:41)

Luis Alberto Spinetta: programación, sampler, guitarras acústica, eléctrica y sinte, bajo Yamaha de 5 cuerdas, teclados y voz.
Músicos invitados:
Jota Morelli: batería.
Machi Rufino: bajo.
Claudio Cardone: teclados, piano, órgano y cuerdas.

スピネッタ唯一のサウンドトラックとなったアルバムで、監督が「ロックムーヴィー」と称しているように、全編スピネッタの音楽が使われ、台詞は一切なく聞こえてくるのは音楽と環境音だけである。映画はアルバムに丸々映像をつけたような代物で、「不思議の国のアリス」を思わせる不条理なダークファンタジーとなっている。イメージを羅列したようなドラマツルギーの無いアート映画のため、公開当時は早々に打ち切りの憂き目にあった。テリー・ギリアム的なダークファンタジーと、デヴィッド・リンチやデヴィッド・クローネンバーグ的な異形な物体と不条理、ルチオ・フルチ的な映像観、フェデリコ・フェリーニの影響も少なからず感じさせる。小道具にエッシャーやダリ、マグリット、コクトーなどの引用も差し込まれている。
アルバムは1992年10月から1993年1月にかけて、自宅スタジオでレコーディングされ映画公開の前年の1993年にリリースされた。前作に引き続き「Spinetta de entrecasa(家ごもりのスピネッタ)」状態でレコーディングされたが、いくつかの曲ではスピネッタの他に、ドラムスにジョタ・モレーリ、ベースにマチ・ルフィーノ、キーボードにクラウディオ・カルドーネが参加した。「Pelusón of milk」の続編のようなアルバムで、打ち込みをバックにアコースティックギターと歌が中心となっている。
この映画は監督のパブロ・セザールとグスターボ・ビアウが原案を担当し、当初から台詞のない映画音楽作品として構想され、音楽と詩はスピネッタが作曲することになっていた。そのような経緯もあり、作品は映画のBGMとしてのサウンドトラックとは毛色が異なり、スピネッタの歌われる詩と曲のイメージが、映画の主人公の内面のドラマを物語ることで、映画と音楽が相互に成り立つ間柄となっている。打ち切りの憂き目にあったことで、スピネッタの作品の中でも一番マイナーなアルバムとなってしまった。
このアルバムのタイトル「Fuego Grid (灰色の炎)」という表現は、アフリカ文化、特にヨルバ族の民間伝承からの引用で、それらのテーマに沿って映画は作られた。アルバムのジャケットは、映画公開時のポスターと同じもので、作家のシルエロによるもので都市のシルエットと灰色の大空を背景に、噴火中の火山のようなものが描かれ、そこから空に向かって垂直に光線が出ているデザインとなっている。

・砂漠のパートナー

1994年はアルゼンチン・イスラエル相互協会爆破事件が起きた年で、アルゼンチン・イスラエル相互協会の本部ビルが爆破された事件だった。さらにテキーラ効果と呼ばれるメキシコ通貨危機が起き、ブラジルやアルゼンチンといった南米諸国へ影響が波及していった。1989年に米国が冷戦に勝利して始まったグローバリゼーションが進む中での国際的危機の最初期のものであった。カルロス・メネム大統領が推進した「構造改革」に着手したアルゼンチンにとって、この年は数十年前に確立された平等主義的なタイプの社会から脱却するための変革の重要な年であった。かなりの割合で中産階級が存在していたが、テキーラ効果の影響を受け数ヶ月で大量の失業が発生し、10年の間にアルゼンチンの中産階級は消滅し、不安定で疎外され、分断された社会が出現することになる。

スピネッタもまた、音楽的にも個人的に危機と変化の時期を迎えていた。音楽的には1987年以降のスピネッタの音楽に大きな影響を与えたモノ・フォンタナが彼のもとを去った。さらにこの数年家族との親密な関係に身を置いたが、20年間続いた妻パトリシア・サラザーとの関係に終止符が打たれ、1995年末に正式に離婚し、モデルのカロリナ・ペレリッティと1999年まで続く恋愛関係が始まっていた。

スピネッタは初心に帰ることを決意し、ダニエル・ツエルト・ヴィルツ(ドラム)、マルセロ・トーレス(ベース)とトリオを結成し、「スピネッタ・イ・ロス・ソシオ・デル・デシエルト(スピネッタと砂漠のパートナー)」と名付けた。それまで培ってきた叙情的で繊細メロディを曲の中心に添えながら、70年代前半に演奏していたようなロックの原点に立ち返っている。ペスカード・ラビオーソの頃のようなブリティッシュロックを参照していたスタイルとは異なり、スピネッタ節と言える歌のスタイルと彼のクリーンなサウンドのギターは、その後の2000年代の多くの名盤の礎となっている。

バンドは1994年4月にリハーサルを開始し、11月18日にブエノスアイレスのベロドロモでライブデビューを行う。 

1995年にはツアーを行いサンティアゴ・デ・チリで演奏し、ブエノスアイレスのテアトロ・オペラでリサイタルを行った。

1995年後半に自宅スタジオで2枚組のアルバムをレコーディング。しかし彼のキャリアと世間的な成功にもかかわらず、レコード会社はこのような音楽の「市場」はないと判断し、彼が要求する契約金が大きすぎると主張しアルバムの発売を拒否した。

「主要レコード会社が私の要求を受け入れなかったことと、一部の報道機関が、私が金額や販売数を誤って見積もっているという情報を流したことを考慮して、私は物事を明らかにする義務があると感じています。私の創造的な人生と、常に私を導いてきた反抗的で芸術的な炎は、私の最後の作品であるこの作品が出版されなくても、何の損失もありません。遅かれ早かれ、どこかのレーベルが私の作品を認め、私の要求を受け入れてくれるだろう。それが私の力になります。私のレコードは、売れ行きはゆっくりで、ブームにもならなかったかもしれませんが、私が覚えている限りでは、カタログやコレクターズアイテムになるまで、着実に売れ続けています。」
ルイス・アルベルト・スピネッタ

同時にスピネッタはカロリナ・ペレリーティと付き合い始めた頃、芸能誌に追われ、パパラッチに向かって「ゴミを読むと健康を害する、本を読め」という看板を首から下げて登場しそのメッセージを紙面に掲載させた。

1996年3月9日にパレルモ(Alcorta y Dorrego)で、9月22日にパルケ・チャカブコで第2回ビエナル・ジョヴェンの閉会式のために数万人の聴衆を集めて2回の公開ライブを行った。

1997年1月4日にブエノスアイレスのPlaza de las Naciones Unidasで10万人を動員する大規模なライブで幕を開けた。

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