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新版画の潮流/小原古邨と吉田博 、渡邊庄三郎について

・小原古邨(おはらこそん)の展示を観て

日曜美術館で取り上げられていた近代木版画の作家である小原古邨の展示を観てきた。番組で取り上げられていた作品の展示の殆どは入れ替えられていたものの、版画とは思えない絵はやはりすごい。昨年茅ヶ崎の美術館で開催され、原宿の太田記念美術館にて開催されている。

明治から昭和初期の間に活躍した人物ではあるのだけれど、日本国内ではほぼ無名のまま今日に至っていて、纏まった作品が掘り起こされたことがきっかけで、日の目を見ることになった。

鮮やかな色調やコントラスト。特に晩年に向けて作風がガラリと変わる瞬間を目の当たりにした時、体の底から震えが起こるほどの感動を覚えた。時代としては工業化が進んだことによる化学染料の発達や、かつての浮世絵と異なり下絵を湿版写真に撮ったものを使用するという現代化が進んだ技術が取り入れられているのも大きな特徴。湿版写真とはフィルム以前の技術で、ガラスに画像を落とし込むもの。

元々日本画からスタートした古邨が、作品を量産するために版画を取り入れた事と、その日本画のテイストを丸々版画に落とし込む表現だったのが彼の個性として際立っている。ぱっと見日本画と見紛うほど、淡さも兼ね備えている。

・同時代の版画家 吉田博

同時代の木版画の作家として近年評価が上がりつつあるのが吉田博。

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古邨と吉田博に共通するのは主に海外に向けて作品が作られていて、日本国内よりも海外での認知の方が高い。吉田博は日本の画壇の世界よりもアメリカなど国外へアピールすることへの可能性を感じ、世界各地を巡りながら絵を売りさばいていた。
古邨についても海外へ絵を輸出や、個展を開く事で成り立っていた。国内よりも国外向けに作っていた事で作品の殆どが国外にあり、振り返られるタイミングがなかった事と、日本の画壇からみればセルアウトしたようにも映ったのではないかと想像する。芸術というよりも商業作家として認知されていたのかもしれない。

古邨は日本画作品を海外へ絵を送り出すのに作品が足りなくなり、増産するための作として版画に取り組むことになる。

・新版画の版元 渡邊庄三郎

そんな吉田と古邨に版画の依頼をかけたのが版元である渡邊庄三郎という人物。

渡邊がフィクサーとなり、新版画という江戸時代の浮世絵以来の高度な技術を用いた新作を送り出す分野を作り出す。他にも川瀬巴水のような画家をフックアップし、版画への製作に引っ張り込む。明治に入った頃、写真などの技術が発達した関係もあり、日本国内の浮世絵人気は下火になったが、その後海外からの需要が増えたことで新版画の流れが生まれる。

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因みに代表的な作家の絵のいくつかは、神保町などの専門店で購入も出来る。

・作風について

吉田は渡邊のもとで7作のみ作成するが、その後版元から離れインディペンデントな活動にシフトする。それまで需要のあった肉筆画が売れず、渡邊のもとで作った版画の人気に可能性を見出し、彫り師、刷り師を抱えたスタジオのようなものを設立。吉田の作風は日本の風景以外にもグランドキャニオンやヨセミテ、マッターホルン、ヴェニス、エジプトなど海外の風景と、かつての浮世絵の何倍にも及ぶ回数の刷りによる超絶技巧が特徴となっている。

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どちらかといえば北斎に近い風景画が主な吉田に比べて、古邨は歌川広重が作っていたような花鳥画が主なテーマとなっている。
昭和に差し掛かると、古邨の作風に変化が見られる。それまで日本を写し取った作風だったものが、よりグラフィカルな表現へとシフトする。

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色調のコントラストはより明暗がはっきりとしたものになり、下絵となった絵をもとにしながらも最終稿では下絵と異なる色合いをのせるようになる。古邨は吉田と異なり、渡邊のもとで多くの作品を残した。

小原古邨と吉田博の両名は江戸時代が終わり、明治、大正、昭和と近代化が進む中で、国内よりも国外へ視野を持ちながら技術を磨いた作家であった。時間が経った事で当時の画壇とのしがらみから解かれ、フラットに作品に触れる事が出るようになった現在視点から彼らが評価されるのはとても喜ばしい事だと思う。江戸時代の町人文化を用いれたかつての浮世絵とは異なり、世俗的な内容は希薄なまでも、ユーモアと絵の美しさは純粋に観ていて楽しい。
新版画の認知は現状あまり高くないので、これから他の作家もフォーカスされていくと思われる。

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小原古邨の展示は今月の24日までなので、気になる方は是非とも観に行って欲しい。


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