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ホドロフスキーのDUNE/フランク・パヴィッチ

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タイトル:ホドロフスキーのDUNE
監督:フランク・パヴィッチ

一度観るだけか?繰り返し観るか?

ドキュメンタリーの類の映画は一度観て、そうかそうかと納得して終わる事が多い。もちろん納得しない事もあれば、まったく身に入らない内容のものも少なくない。個人的に繰り返し観るドキュメンタリー作品といえば異邦人の視点で東京を切り取ったヴィム・ヴェンダースの「東京画」がある。1983年というバブル直前の時代の東京の姿は、今の時代から見ればファンタジックな風景に映る。変わらない風景もあれば、すでに壊されて新たな建物に上書きされているものもある。かつてあった東京と今でもそこにある東京がクロスする時、東京に住む人間としてはノスタルジーと非現実さが同時に訪れる。映画としての面白味とは異なるかもしれないけれど、あの時代がパッケージされたドキュメンタリーとして琴線がくすぐられるのは、ある種の快感が伴う。
ホドロフスキーのDUNEも何度観ても楽しむことが出来る優れたドキュメンタリーだと思う。ホドロフスキーが夢見た世界がホドロフスキー本人の口から語られる事で、散ってしまった夢を観ている我々も追体験出来るからだと思う。何度観ても奇跡的な出会いが終焉を迎えながらも、そこから広がった夢が現実に現れていた事の事実を確認出来るのだから。壮大な時代のミッシングリンクがそこにある事を知る事で、ホドロフスキーの夢は違った形で現実となり知らず知らずのうちにそれらに触れていた事が分かる感動が巻き起こる。

ホドロフスキーがもたらしたもの

このドキュメンタリーを観れば、アメリカンニューシネマを終わらせたジョージ・ルーカスの「スターウォーズ 」以降のSF映画の端々にホドロフスキーの遺伝子が攪拌されたのかがよく分かる。

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ホドロフスキーが残した分厚いストーリーボードは、ハリウッドの映画会社を納得させるためのものだったものの、各社に配布されたこのストーリーボードが多くの映画の萌芽となっているのは劇中でも描かれている。
DUNEが頓挫した事による失意の中でダン・オバノンが関わったリドリー・スコットの「エイリアン」は、DUNEという企画が生み出した大きな産物だった。「エイリアン」のDVDにはメビウス(ジャン・ジロー)による絵コンテが確認出来る。クリス・フォスやエイリアンのデザインをしたギーガーらも召集しだった事で、DUNEとは異なる世界観ながらもそこにあった側面が作品として残ったのは大きな意義がある。後の「ブレードランナー」の世界観もダン・オバノンがもたらしたDUNEの断片の軌跡が色濃く残っている。

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もしDUNEが完成し、公開されていたらどうなっていたのだろう?それは音楽の世界で言うところのビーチボーイズの「スマイル」が完成していたら…という時代の「もし」を想像するしかない儚い想像でしかないのだけれど、やはりそこに救いを求めてしまう希望を見出してしまうのは、作品のスケールを考えれば致し方ないのかなと。時代は変わったかもしれないけれど、短命に終わった可能性も大いにある。消費されなかったピュアな状態が担保された棚上げ状態は、終わりを告げられながらもロマンと夢がふんだんに含まれている。出来ればホドロフスキーが言うように、アニメで完成されないかなと願う。いつの日か叶うような気にさせられる。

ウォーリアーの集い

それにしてもウォーリアーたちのメンツを見ると、一からこのメンツを集めた事の奇跡的な出会いは凄い。ここから巣立ったとも言えるのだけれど、メビウス、クリス・フォス、ギーガーらがホドロフスキーによってフックアップされた事実は、改めて考えても凄い。ウォーリアーたちは類稀なる才能を持った人達なので、ここで集わなくても何かしらで時代の寵児になったとは思うのだけれど、それでもあの時代にあのメンツが揃ったのは興味深い。さらにサルバドール・ダリやオーソン・ウェルズ、ミック・ジャガーらの配役や、ピンクフロイドとマグマ(後にギーガーがジャケットを描いていた)といったミュージシャンが作品に関われていたら、彼らのキャリアも大きく変わったのかもしれない。ここにある色々な夢は、ホドロフスキーだけではなく観ている我々も夢観る楽しさに溢れている。

先日、新作「ホドロフスキーのサイコマジック」の上映に合わせて、リモートでホドロフスキーのインタビューが行われていた。ホドロフスキーによるサイコマジックの理念は、ミクロな人間の健全さが、マクロな宇宙全体に影響を及ぼすと語っていた。人々が不健康に過ごせば、それは宇宙全体に波及し不健康を撒き散らすと。そんなバタフライエフェクトな理念は、このドキュメンタリーでも語られている。ホドロフスキーの各作品で描かれている家族という最小単位を扱いながらも、DUNEでの宇宙全体と精神で繋がるという表現はインタビューやドキュメンタリーの内容からも一貫している。
ホドロフスキーにとって物理的なリアリティは些末な事であり、一見稚拙な表現とも思える世界観に精神的な視点があるかどうかを重きを置いているがどうかが大きい。スタンリー・キューブリックが「2001年宇宙の旅」で目指したリアリティよりも、ジョン・カーペンターの「ダーク・スター」の安っぽさと隣り合わせのリアリティを追った事がホドロフスキーの本質なのではないだろうか。アロハシャツで横たわるダン・オバノンの姿の方がある意味リアルでもある。

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この映画の真骨頂は、デヴィッド・リンチがDUNEを手がけてそれをホドロフスキーが観に行く下りだと思う。シュールレアリズム最高峰の監督が自分の企画を描いたとなれば、自分よりも優れた作品を残すのは当たり前という先入観の中観劇するという最悪なシナリオになる。息子から「ウォーリアーなら観なければ駄目だ」とダメ押しされながら観たリンチ版DUNEに対するホドロフスキーの感想は晴れ晴れとして痛快。このシーンだけでもこの映画を観る価値はある。リンチには悪いけれど。
来るも去るも肯定する(というよりも結果的に肯定出来た)ホドロフスキーの力強さを感じる。現在御年91歳の最晩年のホドロフスキーの今後も一体どうなっていくのか楽しみではある。現在の新型コロナの影響で三部作のラストの製作が進まないのが気がかりではあるが…。

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