ルイス・アルベルト・スピネッタの軌跡⑦/五月広場の母親たち スピネッタ・ハーデ解散
※有料にしていますが全文読めます。
「汚い戦争」と呼ばれたフォークランド紛争/マルビナス戦争が終結し、1976年3月から続いた独裁政権は終わりを迎え、1983年12月に急進党のラウル・アルフォンシンが大統領に就任した事で民政移管し民主化が進められた。
しかし独裁政権時代に子供を含む多くの人々が失踪した爪痕は今現在も残っており、その中でも「五月広場の母親たち」による呼びかけは今も尚続いている。
「五月広場の母たち」の発端は1977年4月30日、ブエノスアイレス市の五月広場での集会から始まり、彼女たちは失踪した子供たちのために当局に陳情するための組織を作るための集会所として集った。最初は座り込みでの集会だったが、包囲網が宣言されると警察は彼女らを広場から追い出した。そして、1977年10月に行われた「ルハンの聖母巡礼」では、グループとしてのアイデンティティーを示すために、白いヘッドスカーフを着用した。毎週木曜日の午後3時半に五月広場周辺を行進することと、白いスカーフという2つが集会のシンボルとなった。失踪した自身の子どたちへの想いから、この白いスカーフは当初おむつの布で作られていた。1983年に民主主義が到来したが、彼女たちはデモ行進や行動を続け、政府に参加した軍人の非難を要求した。彼女たちは多くの国際組織から支援と評価を受け、他の多くの人権団体にも支援を与えてる。
そしてアルゼンチンの与党は交代したが、独裁政権下の債務超過によるインフレは依然として残り、経済的な不安定な状況が大きな課題として残っていた。
・五月広場の母親たちとマリベル
スピネッタは最後の独裁政権に終止符が打たれたことに合わせ、「五月広場の母親たち」に捧げられた「Maribel se durmió(眠ってしまったマリベル)」を作曲する。このメロディーはベートーヴェンの第九交響曲から着想を得たもので、曲は息子のヴァレンティノが重病になったときの苦悩から着想を得たものだと説明している。
この歌は失踪者に由来するものではないと、スピネッタが何度もそれを明らかにしたにもかかわらず、「マリベル」は失踪者の象徴として「五月広場の母親たち」の中に残っている。
・Spinetta Jade/Bajo Belgrano 1983
リリース:1983年12月3日
LADO A
Canción de Bajo Belgrano (Spinetta) 3:32
Vas a iluminar la casa (Spinetta) 3:12
Maribel se durmió (Spinetta) 2:34
Vida siempre (Spinetta - L. Sujatovich) 5:53
Ping pong (L. Sujatovich) 4:47
LADO B
Mapa de tu amor (Spinetta - L. Sujatovich) 4:41
Resumen porteño (Spinetta) 3:57
Era de uranio (Spinetta - L. Sujatovich) 4:21
Cola de mono (Spinetta) 3:19
Viaje y epílogo (Spinetta - L. Sujatovich) 3:58
Luis Alberto Spinetta: Guitarra y voces.
Leo Sujatovich: Piano Yamaha acústico y eléctrico, Piano Rhodes, Prophet V y Synergy.
César Franov: Bajo con y sin trastes.
Héctor "Pomo" Lorenzo: Batería.
Invitado
Osvaldo Fattoruso: Percusión en Ping Pong, Mapa de tu amor y Vas a iluminar la casa.
タイトルはスピネッタが生まれ育った地域である、ブエノスアイレス市の北東部に位置するバホ・ベルグラノ地区を意味している。彼の生家はコングレソとケサダの間のアリベニョス2853番地。スピネッタは自分の住んでいる地域や、その沿岸を流れるラプラタ川と非常に深い関わりを持っていた。
ベルグラーノ地区には、当時まだ運営されていた主要な秘密収容所のひとつであるESMA(Escuela de Mecánica de la Armada)や、軍政権当時に行方不明になった被収容者をラ・プラタ川に落とした(死のフライト)飛行機が出発したアエロパルケ軍事空港がある。現在、ここにはParque de la Memoria de Buenos Aires(ブエノスアイレス記念公園)がある。
死の間際にスピネッタは自分の遺灰を故郷の地、ベルグラノ川(Bajo Belgrano)のリオ・デ・ラ・プラタ(Río de la Plata)に、国家テロリズム犠牲者のための記念碑がある場所の隣に投げ込んでほしいと遺言した。
Bajo Belgranoのジャケットに描かれているもの
01.走る若者
02. 犬を散歩させる女性
03. パトカー
04.タンゲロの剥ぎ取り
05.ビラ・デル・バホ・ベルグラノの解体
06.グリーン・ファルコン
07. バス
09. ミニスカートの女性
12.少女
13.スケートをする少女
14.掃除をする女性
15. コスタネラ・ノルテに寄り添う青春
アルバムの表紙と裏表紙は1枚の連続した絵で、アルメンドラのアルバム「El valle interior」も描いていたエドゥアルド・サンテランによるもので、面のジャケットは夜明けオレンジ色の空が描かれている。裏ジャケットは変わって夜の近所の様子が描かれている。海辺の一見穏やかな面のジャケットをひっくり返すと、廃墟や銃を構えた警官の乗るパトカーなど穏やかではない景色が描かれている。1978年初頭にベルグラノのスラムの暴力的な排除による立ち退きが行われ、この地域の都市的・社会的なものと、アイデンティティそのものを大きく変えてしまった事が描かれている。この出来事は、スピネッタの家から10ブロックほど離れたリバープレート・スタジアムで開催された1978年のワールドカップ開幕の数日前のことであった。独裁政権の暴力により、295軒の家が取り壊され、973人が立ち退きを余儀なくされ、その結果7ヘクタールが高額な不動産取引のために解放されることになった。面のジャケットに移るトラックは家具やマットレスを積んだ"La nueva fe(新たな信仰) "と呼ばれる撤去業者である。アルバムに収録されているいくつかの曲は、バホ・ベルグラノというスラム街の撲滅や、最後の独裁政権で行われた暴力行為を暗示している。さらにスピネッタは、ベルグラーノ地区(Bajo Belgrano)の「そのあたり」に、最も悲惨な秘密収容所であるESMAがあることを指摘した。ESMAは、彼の家からわずか数ブロックのところにあった。
このアルバムのリリースは、プロデューサーであるアルベルト・オハニアンの決定により、1983年12月3日にスピネッタの6番目のソロ作品「Mondo di cromo」と一緒に発表された。スピネッタ・ハーデの宣伝を優先するため、実験的な作品となったソロアルバム「Mondo di cromo」を後回したことで、スピネッタはこの決定に強い疑念を抱いた。この時のストレスと緊張のせいで、スピネッタはリサイタルの最中に声が出なくなってしまい、人生最悪の事態に陥ってしまった。この事件をきっかけに、スピネッタ氏はオハニアン氏とのビジネスの関係を断ち切った。
スピネッタ・ハーデは、さらに前作から新たな変化を遂げていた。ベースのフランク・オイスタセックに代わってセザール・フラノフ(ファナ・モリーナの音楽的なパートーナーであるアレハンドロ・フラノフの実兄)が加入し、バンダ・スピネッタ時代からスピネッタを支えたキーボードのディエゴ・ラポポルトが脱退した。スピネッタ、レオ・スジャトビッチ、ポモ・ロレンツォとセザール・フラノフの4人編成となった。半数を占めるスジャトビッチとスピネッタの共作は、キーボード主体の曲になっている。しかしそれまでのスピネッタ・ハーデのサウンドの特徴だった2台のキーボード体制ではなくなった事が、サウンド面で大きな変化をもたらしていた。このアルバムでは、インヴィシブレ時代から続くジャズからの影響は薄まり、タンゴの要素も取り入れたポップなサウンドに変化している。前作の所々にあったSSW的な側面が強まり(ペスカード・ラビオーソとインヴィシブレと同じような流れを感じさせる)、手数の少ない整理されたリズム隊が前面に出ている。
1984年1月26日にはブエノスアイレス市の新民主主義政府が主催した無料コンサートで、スピネッタは彼の住むバランカス・デ・ベルグラーノで観客を集めた。
・Luis Alberto Spinetta/Mondo di cromo 1983
リリース:1983年12月3日
LADO A
Paquidermo de luxe (instrumental) 1:32
Luis Alberto Spinetta: guitarras y bajo.
Leo Sujatovich: Prophet 5.
Pomo Lorenzo: batería.
Yo quiero ver un tren 4:03
Luis Alberto Spinetta: guitarra, voz y coros.
David Lebón: bajo, tumbadoras, guitarra solista, coros.
Pomo Lorenzo: batería, timbaletas.
La rifa del viento 2:33
Luis Alberto Spinetta: guitarra, bajo y voz .
Herido por vivir 3:53
Luis Alberto Spinetta: guitarras y voces.
Leo Sujatovich: bajos y cuerdas OBX.
Pomo Lorenzo: batería.
Símil bahión (instrumental) - 2:53
Luis Alberto Spinetta: guitarras y bajo.
Pomo Lorenzo: batería y percusión.
Cuando vuelva del cielo 4:31
Luis Alberto Spinetta: guitarras y voces.
Carlos Alberto "Machi" Rufino: bajo.
David Lebón: batería y percusión.
LADO B
Lo siento en mi corazón 3:11
Luis Alberto Spinetta: guitarras y voces.
Leo Sujatovich: bajo Multimoog y Prophet 5.
Gustavo Pires: piano Fender.
Pomo Lorenzo: batería.
Será que la canción llegó hasta el sol 3:21
Luis Alberto Spinetta: guitarras y voces.
Leo Sujatovich Prophet 5.
Días de silencio 3:08
Luis Alberto Spinetta: guitarras y voces.
Carlos Alberto "Machi" Rufino: bajo.
Pomo Lorenzo: batería.
El bálsamo (instrumental) 3:30
Luis Alberto Spinetta: guitarras.
Hugo Villareal: bajo.
Pomo Lorenzo: batería.
Para Valen (instrumental) 1:40
Luis Alberto Spinetta: guitarras, voz y silbatos
Pomo Lorenzo: platillos voladores
No te alejes tanto de mí 3:29
Luis Alberto Spinetta: guitarras, bajos y voz.
David Lebón: guitarra rítmica, guitarra solista y coros.
Pomo Lorenzo: batería
Tango cromado (instrumental) 2:27
Luis Alberto Spinetta: guitarras.
Leo Sujatovich Prophet 5.
David Lebón: bajo, guitarra solista, guitarra rítmica, tumbadoras, batería, percusión, voces y coros.
Héctor Pomo Lorenzo: batería, timbaletas, percusión y platillos "voladores".
Carlos Alberto Machi Rufino: bajo.
Luis Alberto Spinetta: guitarras, bajo, silbatos, voz y coros.
Leo Sujatovich: Prophet-5 ,bajos y cuerdas OBX y bajo Multimoog.
Gustavo Pires: piano Fender.
Hugo Villarreal: bajo.
Arte de tapa: Sergio Pérez Fernández.
Fotografía: Hernán Rolbón.
Maqueta de ficha en foto de tapa: Raúl López.
Técnico de grabación y mezcla: Gustavo Gauvry.
Productor: Luis Alberto Spinetta.
7月にレコーディングされたスピネッタ・ハーデの「Bajo Belgrano」と同日にリリースされた「Mondo di cromo」は、先駆けて2月から5月にかけてレコーディングされていたが、リリースは同じタイミングとなった。
スピネッタはこのアルバムの製作の前後に、いくつかの新しい機材に出会う事になるが、それらは晩年までのスピネッタのキャリアの中でも大きな分水嶺となった。前年の1982年、スピネッタはチャーリー・ガルシアのソロアルバム「Yendo de la cama al living」で二曲に参加した。その中の『Canción de dos por tres』でローランドのギターシンセサイザーGR-300を使用したギターソロを演奏している。ギターシンセ自体は「Mondo di cromo」では登場していないが、その後のアルバムで都度登場する事となった(GR-300はトーキング・ヘッズのデイヴィッド・バーンも使用していた)。
もう一つが同じくローランドのドラムマシンの名機TR-808。TR-808といえばブラック・コンテンポラリーの一大潮流を作ったマーヴィン・ゲイの「ミッドナイト・ラブ」や、YMOの「BGM」(後述するプロフェット5と合わせて多様していた)やアフリカ・バンバータなどの初期エレクトロヒップホップなど80年代初期に活躍し、その後のシカゴのハウスシーンで使用された事で決定的な地位を確率した機材であった。1980〜1983年という短い時期の生産だったにも関わらず、人気は衰えず近年は高値で取引されている。
チャーリー・ガルシアは「Yendo de la cama al living」と1983年の「Clics modernos」でTR-808を多用しているが、アルゼンチンにTR-808を持ち込んだのはペドロ・アスナールだったという。アスナールも参加したアメリカ録音の「Clics modernos」では現地でドラマーを調達しようとしたものの、上手くいかずTR-808を鳴らしながら演奏した方がしっくりきたため、大半の曲で使用された。チャーリー・ガルシアはライブでもTR-808を使用している。
スピネッタは「Mondo di cromo」のレコーディング前にガルシアから、タスカムのカセットMTR”PORTASTUDIO”を手渡される。(おそらく年代から察するにPORTASTUDIO 244と思われる。)
カセットテープに多重録音ができるMTRの登場は、多くのミュージシャンが自宅録音を始めるきっかけを作ったが、スピネッタも多分に漏れず宅録のデモが残されている。このデモではガルシアから借りたTR-808を使用した録音を自宅で行なっていた。
デモの録音を元に「Mondo di cromo」がスタジオで録音されるが、さらにキーボードのレオ・スジャトヴィッチはシーケンシャル・サーキットのプロフェット5やオーバーハイムのOBXも導入していた。
冒頭の「Paquidermo de luxe」ではギターにピッチシフター(1オクターブ上の音を出すエフェクター)が使用されている。
ガルシアの「Clics modernos」と機を同じくしてスピネッタの「Mondo di cromo」もニューウェーヴ色が濃厚になったが、アルバムの時点ではドラムマシンなどは使用されずバンドのスタイルが保たれ、ポモとマチの元インヴィシブレや、元ペスカード・ラビオーソのダヴィド・レボンなど旧知のメンバーも参加している。しかし、何曲かでスピネッタがベースを弾いている様にMTRで試みた多重録音がスタジオ録音でも随所に残されている。以降のスピネッタのキャリアの中で、これらの新たな機材はレコーディングに大きく影響を及ぼしていくことになる。
弾き語りがメインだった「Kamikaze」に比べると、ストレートな8ビートのリズムが主軸になっていて、ジャズロックやフュージョン色は払拭されている。トニーニョ・オルタなどのミナスのファンにも受け入れられそうな「Símil bahión」はジャジーな雰囲気を残すが、楽曲のベースはニューウェーブ以降のロックサウンドに移行している。
摩訶不思議なジャケットは、セルジオ・ペレス・フェルナンデスによるデザインで、スピネッタがイメージしたものを写真家のヘルナン・ロビンが制作した。
簡素な部屋で、口髭を蓄えた中年男性がテーブルで食事をしている様子が描かれている。彼の首にはホーキング博士が使う様な喉元の動きから音を取る様な機械があり、そこからヘッドフォンが接続され、テーブルの横にはよく分からない機器が並んでいる。このアルバムのテーマは米ソの冷戦の悪化による核の危険性や、テクノロジーと資本主義がもたらす世界の悪化といった状況の中で、過去と未来の衝突の懸念を表している。後にスピネッタは「Yo quiero ver un tren」の歌詞について、核戦争後の世界の空気は「クロムの空気...超汚染された空気」と語っている。
このアルバムはインストゥルメンタルの比重が高く、13曲のうち5曲がインストゥルメンタルで、スピネッタが録音したすべてのアルバムの中で最も高い割合を占めている。
「Mondo di cromo」は近未来を想像しながら、独裁政権の終わりと冷戦の不安定な時代と、経済不安の時代への突入への不安が語られているアルバムだった。
・Spinetta Jade/Madre en años luz 1984
リリース:1984年
LADO A
Camafeo (Spinetta) 3:52
Entonces es como dar amor (Spinetta) 5:15
Amarilla flor (Spinetta) 3:12
Este es el hombre de hielo (Spinetta) 3:41
¿No ves que ya no somos chiquitos? (Spinetta) 2:15
LADO B
Ludmila (Spinetta - L.Sujatovich) 3:48
Enero del último día (Spinetta) 3:41
Mula alma (Juan Carlos Fontana) 3:42
Diganlé (Spinetta) 6:36
César Franov: Bajo Peavey (arreglo de bajo en "El hombre de hielo").
Héctor "Pomo" Lorenzo: Platos en "Diganlé".
Juan Carlos "Mono" Fontana: Yamaha Grand - Yamaha DX7 - OBX-8 Oberheim - Moog The Source.
Lito Epumer: Guitarra Gibson 175 - Tele Fender (arreglos de guitarra en "Entonces" y solo en "Diganlé").
Luis Alberto Spinetta: Guitarra Roland polifónica, programación y voces.
Invitados
Osvaldo Fattoruso: Percusión en "Mula Alma" y timbaletas en "Enero del último día".
Pedro Aznar: Programación en "Ludmila" y "Diganlé".
Señor Tempo DMX
本作ではそれまでの三枚とは打って変わって「Mondo di cromo」のデモ制作の際に触れたリズムマシンやシンセサイザーが導入され、サウンドが大きく変化した。参加ミュージシャンにクレジットされている「Señor Tempo DMX」はオーバーハイムのドラムマシンの事で、全曲で使用されている。スピネッタにとってデジタルドラムは非常に重要で、あたかもミュージシャンのように紹介されている。DMXを持ってきたのはペドロ・アスナールであり、その時にプログラミングを覚えたと述べている。
他にもヴァン・ヘイレンの「Jump」で使われていた事で有名なオーバーハイムのOBX-8や、FM音源シンセとして説明不要なほど有名なヤマハのDX-7など、この時代らしい機材がラインナップに加わっている。
冒頭の「Camafeo」のドラムマシンとシンセサイザーによるサウンドは奇しくも「BGM」以降のYMOに近い雰囲気がある(バレエと比べて聴いてみるとよく分かると思う)。これらの機材の使用は後に世界的に一般化するが、アルゼンチン国内でも早い段階での導入となった。
しかし、当時スピネッタがこのアルバムで発表した新しいエレクトロニック・サウンドは、議論や批判が巻き起こり、一部のファンは「敵」と認識されていたこれらの技術を使ったことにより「裏切りもの」扱いされていた。
このアルバムではまたもメンバーチェンジが行われ、キーボードのレオ・スジャトビッチに代わってファン・カルロス・"モノ"・フォンタナが参加し、M.I.A出身のギタリストであるリト・エプメルが加わり、スピネッタ(ギター・ボーカル)、セザール・フラノフ(アレハンドロ・フラノフの実兄)(ベース)、そして「Diganlé」でシンバルだけを演奏したポモ・ロレンツォの5人編成となった。ウルグアイのミュージシャン、オスバルド・ファトルーソ(ウーゴ・ファトルーソの実弟)が「Mula alma」のパーカッションと「Enero del último día」のティンバレッタで参加し、ペドロ・アスナールが「Ludmila」と「Diganlé」のプログラミングでゲスト・ミュージシャンとして参加している。
リト・エプメルとモノ・フォンタナは十代前半に70年代にマドレ・アトミカ(Madre Atómica=Atomic Motherは言わずもがなピンク・フロイドのアルバムタイトルから)というバンドを結成した仲で、メンバーにペドロ・アスナールも在籍していた。モノ・フォンタナとスピネッタの関係は晩年まで続く。スピネッタはモノ・フォンタナに対して常に最上級の称賛を感じ、共に仕事をすることになるミュージシャンとなった。
ゲストで参加したオスバルド・ファトルーソとウーゴ・ファトルーソからの影響についても語っている。
1985年5月、アルバムのライブはブエノスアイレスのルナパークで発表された。髪をオレンジ色に染めアンドロイドに変装したスピネッタが登場した。このコンサートには、ペドロ・アスナールやチャーリー・ガルシアがゲスト出演していたが、観客の一部から口笛を吹かれたことでスピネッタの怒りが爆発し、アンコールをしないことでその怒りを表現した。
アルバムタイトルMadre en años luz(光年の母)とは、MadreはMadre Atómicaへのオマージュで、años luz(Light Years,光年)はカール・セーガンの「コスモス」シリーズが、スピネッタの宇宙観に影響を与えていたことに由来する。
ジャケットには、黄色のドレスを着て髪に赤いリボンをつけた少女が、宇宙に浮かぶシンボルを見ている姿が描かれている。このシンボルには、女性的なシンボルと男性的なシンボル、そして無限大のシンボルが含まれている。
本作りリースと共にスピネッタ・ハーデは解散し、新たなコラボレーションの道を辿ることになる。
1984年9月7日、ブラジルのイヴァン・リンスがアルゼンチンでの初のコンサートを行い、ペドロ・アスナール、レオン・ジエコとともに参加した。スピネッタはリンスの曲「Saliendo de mí」を、リンスは「Maribel se durmió」を歌った後、2人で「Muchacha (ojos de papel)」を歌った。このリサイタルは、同年に発売された『Encuentro』というアルバムに収録されている
ここから先は
¥ 300
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?