ヨーゼフ・ボイスは挑発する Beuys/絶対的自由と自己決定
ヨーゼフ・ボイスのドキュメンタリー「ヨーゼフ・ボイスは挑発する」を観た。
ボイスの名前はあちこちで見るものの、少なくともこの10年あまりは振り返られる事が少ない人だったのではないかと思う。僕が現代美術の展示で彼の作品を観たのは、ベルリンのハンブルガーバーンホフに収められている「市電の停車場」と、森美術館のオープニングだったハピネス展(作品名は失念)。今手に入るもので詳しい文献も少なく、触れる機会がなかなかない上にどういったテーマで作品を作っていたのか見えにくい人ではあると思う。
以前、バンクシーが監督したイグジット・スルー・ザ・ギフトショップを観終わった後、なんとなく直感でボイスの事を知らなければと思った事があった。ネットで調べていたところ、清里にあった清里現代美術館でボイスやフルクサスの作品が収められているという事で旅行がてら観にいった。脂肪で作られた作品や、フェルトのスーツなどボイスといえばという作品に触れることは出来たものの、どういった表現のもと作られたのかまで咀嚼できなかった(その時一緒にいた妻の体調が悪く落ち着いて見るどころじゃなく、気が気じゃなかったのもあった)。清里現代美術館は数年前に閉館してしまったため、これらに触れる機会も無くなってしまったのが残念である。
今回この映画でボイスの表現の全貌を俯瞰する事ができた。作品をただ眺めるだけでは分からなかった、彼の活動や発言、何を目指したのかの片鱗が綴られていた。現代美術の中でもウォーホールのようなポップなヴィジュアルのインパクトは無いだけに伝わりにくいものがある。なによりもボイスにとって重要なのは言葉であり、社会との関わりであって、そこから浮き彫りになる社会のかたちを社会彫刻として表現していたというのがこの映画でよくわかった。
資本主義へのアンチを掲げ、社会のシステムに警鐘をならす。描くヴィジョンのスケールの大きさに対して絵空事と取るか、革命と取るかで全く印象は異なると思う。美術の枠に対し視点を拡張し続けた事が、かえって美術というテーブルの上では語られにくいテーマだったのかもしれない。ボイスの目指したものはより普遍的な人間の生き方への問いだったと考えれば、思想家であり、哲学者であり、革命家でもあったのだと思う。
ただし彼はあくまでも現代美術のフィールドから問いを投げかけ、後進の作家達(ドイツ国外の人々までも)の道も切り開こうとしていた。劇中彼の言葉で一番印象的だったのは、美術家として必要なのは「絶対的自由と自己決定」という言葉だった。
誰かに飼い慣らされるように従う事よりも、自分が思ったことを行動する信念を常に投げかける。死の間際までそういった姿勢を貫いたボイスの姿をこの映画で触れる事が出来た。
このラディカルな姿勢は今の時代にも適応するし、右肩上がりしか想定できない破壊的な資本主義経済を抜本的に見直すというテーマはこの先の人類の大きなテーマとも言える。何十年、何百年先の未来に彼の言葉は正しかったという時代がいつの日か来るかもしれない。