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聖なる鹿殺し The killing of a sacred deer/ヨルゴス・ランティモス

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タイトル:聖なる鹿殺し The killing of a sacred deer 2017年
監督:ヨルゴス・ランティモス

ランティモスの映画はとにかく痛い。肉体の痛みもあれば精神的な心の痛みもある。「籠の中の乙女」も「ロブスター」も鏡越しに自らを痛みつけるのだけれど、どちらも痛みの先に彼ら彼女らが望む、ある種の幸福が用意されている(と思っている)。
ただ観ていて感じるのは、どうも痛みや快楽や食欲が体感として本来あるべきエクスタシーやカタルシスや苦しみは二の次にされていて、それらの感覚が横並びになっているような印象が残る。当然痛みから苦しみは導き出されるし、快楽からエクスタシーも得られる表現はあるのだけれど、その先には辿りつくべき場所とは別の所に着地するような感覚ともいうべきか、そんな後味が残る。
「籠の中の乙女」では潔癖なほどの清潔感が漂うあの建物の中で、血まみれになる事で悲惨な痛みを描きながらも、あの世界から一歩踏み出したいという気持ちの方が優っているため、血まみれなのにどこか清々しい気持ちが漂っている。

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「聖なる鹿殺し」も同様に感覚のズレがそこかしこに出てくる。冒頭の切り開かれた胸から覗く心臓の鼓動は、観ていて痛々しさや息苦しさを感じるものの、画としては肉体の鼓動をただ伝えている。マグロセックスのシーン(パンツを脱がすパンッという所で場面をカットするのがユーモラスかつ、なんだか快楽とは遠い描写に思えた)や、監禁されたマーティンがスティーヴンに噛み付いた後、自身の腕の一部を噛みちぎるシーンの様にキャラクターそれぞれは感じるはずの痛みや快楽を通り越した感情の中にいる。特に噛むシーンは同じ痛みを味わう事であって、めちゃくちゃ痛そうなのにマーティン自体は自身の痛みよりもそちらの方が重要だとばかりにその行為を行う。
むしゃぶりつくという行為も肉感的かつ直情的なのに、性的な行動というよりも美味そうな肉にしゃぶりつくような感じがして、食欲と性欲が入り混じった様でもある。スパゲティのシーンもしかりで、食べるという行為よりも父親がそのように食べていたからという仕草だけが浮き彫りになっていて、すごく異様な雰囲気を醸し出している。

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ランティモスの映画の中で起こる肉体の感覚は、別の感覚に置き換わる事で本来感じるべき感覚がズレている事で違和感を感じる。同時に咀嚼音や包帯を剥がすシーンのぬちゃっとした音(クンニリングスや手コキなども各作品で描かれている)など、体を感じさせる音がなっている事で、観客は嫌がおうにも耳と目で本来ある感覚を呼び覚まされる。目の前で起きていることと、観客が感じる感覚は合わさりながらもそこに映る人々はそれとは異なる感覚を味わっている。だからこそ生理的な嫌悪感が増幅される。
ランティモスは現代の映画監督の中でも特殊な人だと思う。現実に起きている事柄を少しばかり焦点をズラす事で、不条理を描きながらもどこか人間の本質の部分に入り込む。
「ロブスター」ではSF的な終末観とレトロな未来感のある街の風景の中に、生殖行動が欠けた人間を淘汰しようとする様が異様な雰囲気を醸し出しながらも、普遍的な男女の関係に落とし込んでいる。
「籠の中の乙女」では軟禁状態の息子と娘たちの異様な光景の中に、外界から遮断して過保護な生活がいかに邪悪なのかをあぶり出す。
「聖なる鹿殺し」ではアウリスのイピゲネイアという古代ギリシャの話を持ち出しながら、人間の傲慢さを描いていた。
中世のイギリスを描いた「女王陛下のお気に入り」にもある通り、ランティモスの描く物語は時代も場所もあまり関係なく、そこにいる人々の異様さを描いている。ギリシャでもアメリカでもイギリスでも彼の本質が変わらずに描かれている所が面白い。日本を舞台にした映画を作ったとしたら面白いものが出来上がるのではないかと思う。

映画の本筋は町山智浩氏とマクガイヤー氏のトークショーが一番流れが追いやすい時思うので、気になる方はこちらも参照していただきたい。特にマーティンと麻酔医が同じ時計をしている理由は膝を打った。

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