【映画】燃ゆる女の肖像 Portrait of a lady on fire/セリーヌ・シアマ
タイトル:燃ゆる女の肖像 Portrait of a lady on fire 2019年
監督:セリーヌ・シアマ
物語冒頭に登場する本作のタイトルにもなっている「燃ゆる女の肖像」は、よく見るとキャンバスではなく板に描かれている。劇中に出てくる中絶シーンを描いた絵も同じくキャンバスではなく板に描かれている。主人公マリアンヌがエロイーズの肖像画を描いていたのはもちろんキャンバスなのだけれど、商業ベースではないマリアンヌ個人の絵は板で描かれているというのは結構重要な点だと思う。10日余りを過ごした記憶を留めようと、売り物ではなくあくまでもプライベートな作品として描きたかったという現れがこの場面に集約されているように思える。物語の主軸となるポートレートでは、描かれる側のエロイーズからちゃんと描かれていないという駄目出しがあったように、被写体に対するパーソナルな部分を描く視点が中心となっている。前半の盗み見るように描いた絵と、被写体の内面に潜り込むように描く視点の力点の違いは絵というものの本質を炙り出していた。だからこそ、売りに出されることを想定していない板に描かれた絵はマリアンヌが実直にエロイーズへの想いを込めたものだったのでは無いかと推測する。途中マリアンヌの前に依頼された絵を燃やすシーンと、燃える最中を描いた絵が表すものは、燃やして消し去りたい想いが両方にあったのかもしれない。
この映画は表面的にはレズビアンの話ではあるものの、1770年当時の女性の立場の在り方を描いている。とはいえ、それは今でも続く問題も孕んでいて、結婚という制度や、表立って活動できない女流画家という立場の弱さが本質的なテーマだと言える。マリアンヌとエロイーズの恋愛も、結婚による破綻は前提にあるし、社会を生き抜くにはふたりが恋人としての関係を保ったまま生活する事が出来ない。別れを前提としながら進む想いに、どうにも出来ない関係性が横たわっている。
キーになるのが劇中にも出てくるオルフェのストーリーで、振り返ったオルフェが最後に見た妻の残像は、途中に2回出てくる純白のエロイーズの残像と重なってくる。マリアンヌが振り返って見たエロイーズの最後の姿は、彼女の過去の記憶と強く結びついている。エロイーズは結婚という冥府に陥り、マリアンヌはそれを救う事は叶わなかったという罪悪感の現れのように感じさせる。
冥府に落ちたオルフェの妻が、別れの言葉を話を投げかけられないのと同じく、ラストシーンで流れるヴィヴァルディの四季(マリアンヌがハープシコードで弾いた曲)の最中に、エロイーズの想いがマリアンヌに届かない皮肉な結末を迎える。
劇中ひとつ気になってしまったのが、祭りの場面で歌われる「La jeune fille en feu」という曲。あまりにも現代的なつくり過ぎて、ちょっと時代にそぐわないように思えた。明らかに20世紀の現代音楽にしか響かないものだったので、もうちょっと時代に沿ったものだったらなと感じてしまった。とはいえ、当時の環境を鑑みて音楽を極力加えない姿勢は素晴らしいと思うし、現代のようには音楽は身近ではなかったから。
見る人によってかなり印象が変わる映画だと思うけれど、練りになられた構図の美しさは凄いと思う。計算尽くした映像の美しさもこの映画の素晴らしさを語る上では外せない要素だと言える。