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10年前の3月11日(振り返りと備忘録)
10年前の3月11日、私は全然大変ではなかったけれど、振り返りと備忘録を残しておきます。
10年前の3月11日、私は新子安のビルにいました。地震のときは机の横の通路にしゃがみこみ、ふと見ると隣の机の上にあるパソコンが倒れそうで、押さえていました。
揺れがおさまるとみんなが階段を降りて三々五々表に出てきましたが、なんの情報もなくボーッとしているうちに誰かが「津波が来たらヤバいかも」と言いだして、それもそうだとまたみんなビルの上に上っていきました(ビルの裏は運河で海抜はたぶんゼロメートル)。階段の壁がひび割れていたことを覚えています。
まずはうちに帰ろうと会社を出て駅まで行ったものの京浜東北線は止まっていて、なにはともあれ駅前でちゃんぽんを食べて腹ごしらえ。 お店のおばちゃんと、「すごい揺れでしたね。ちゃんぽん食べられてよかった。当分電車動かないかもねぇ」などと話した記憶があります。
そのあと横浜線は動いてるかもしれないと淡い期待をもって、歩いて歩いて大口駅へ。しかし横浜線ももちろん止まっていて、人気のない駅でしばらく待ったがどうにも動く気配もなし。
横浜駅に行けばなんとかなるかと思い、国道に出ろとぞろぞろ歩く帰宅難民に混ざりました。
横浜駅に着いたもののお店は閉まりコンビニは大混雑。新しくできた北口の地下改札に陣取って、拾った段ボールを敷いて夜明かしの体制作り。
ところが駅員さんから「避難所が開設されたので移ってください」といわれ、またぞろぞろと歩きます。今度もけっこう歩いてみなとみらいのパシフィコ横浜へ。広い展示会場で夜明かしとなりました。
食料や毛布などの備蓄品は「いま倉庫から運んでいる」との案内はあるもののいつまでたっても届かず。横浜市内は信号機が停電で大渋滞、金沢文庫からのトラックが動けなくなったそうで、配られたのは、近所のスーパーから差し入れられたというミカンがたくさん。明け方になってようやく毛布が配られました。
市バス、私鉄が順次運転再開になってだんだんと人の数が減り、朝になって最後にJRも運転再開となりました。 ただ被害の確認で踏切で徐行しているのか、ふだんの倍ぐらいの時間がかかってようやくうちに着きました。