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「BANANA FISH」私は救われなくていい
◇はじめに
本記事はBANANA FISHという作品に出会った筆者が、最終話視聴から3ヶ月経った今、どうにかして気持ちを整理したいと思い立って書き始めたものである。言語化が下手な奴が苦しみながらどうにかこうにかやっているんだなという気持ちで見守っていただければ幸いである。
また、どうしても作品についてはネタバレになってしまうと思うので、今見ているよ、とか、これから見るよ、という方は、くれぐれもご注意願いたい。できればこんな記事は読まずに、どうか先に作品を見てくださいm(_ _)m
(本編にプラスで光の庭の話もしています)
◇備忘録
いろいろ話していく前に、初めにこの作品と私との関わりについてを備忘録的に載せておこうと思う。
BANANA FISHは、結構前から複数の友人に勧められていた作品であり、「お前はたぶんしんどいんじゃないかな…」と添えられた言葉に恐れをなしてなかなか手が出せないまま時間が経ってしまっていたが、ようやく冬に時間ができて見ることができた。
2週間くらいかけて一気に視聴して、1話終わるごとに感想を友人に送りつけていた。心動かされるポイントが多い作品ではあったが、私がいちばん最初に泣いてしまったのが2話の病院でのシーンで、出会って間もないはずのアッシュに対してえいちゃんが彼の想いを汲み取り、「僕には言えない…」と泣いていたのを見て、思わずほろりとしてしまったのだ。これはとんでもないキャラクターがいるぞ……という畏敬の念にも駆られたことをよく覚えている。
この、奥村英二という人は、他者が本当に気づいてほしいところ(おおよそは無意識的なもの)に本当に優しく触れることができるのだ。うまく言えないけど、心の深層にすっと降りてきて、心地の良い距離でそっと寄り添ってくれるような感覚だ。これもまたうまく言えないけど、なんというか、人物の造形の密度の高さを感じた。キャラクターに血が通っているようなリアリティというか。
その後も粛々と視聴を続け、9話で心を折られて眠れなくなったり(ワルツは私と、というタイトルだが、私とするのは地獄巡りだこの野郎という気持ちだった)、第2クールのEDが切なすぎてちゃんと見れなかったり、23話の病院のシーンで泣きすぎて涙拭いてたら話がめっちゃ進んでて慌てたり、色々なことがあった。
全部見た後に、毎回私の感想を受け止めてくれていた友人に会いに行って、いろいろ話しているうちに、「光の庭」が収録された短編集と、サリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」を貸してもらった。それから今に至るまで、サリンジャーをはじめ関連書籍を少しずつ読んでいるところである。BANANA FISHによって不意にもたらされたアメリカ文学作品との出会いはなかなかに得難いものであり、これは個人としてとても素敵な経験になった。
前置きが長くなってしまった。
もうすぐ舞台をやるみたいだし、いい加減私もとっ散らかった気持ちを整理すべきだろうということで、これを機に何か書いておこうと思って、久しぶりに作品について語るような記事を書くことにした。改めて、ネタバレ祭りになることが予想されるのと、多分長くなるので、その点ご注意を願いたい。
◇アウトプットに失敗した話
アウトプットとインプットが自分の中を出入りして巡っていくことで、情報とか感情とか、そういうのが循環していく感覚があって、それが自分を成長させるものだと信じている。外からインプットして何か大きな揺れ動きがあったら、ちゃんとアウトプットをしないと、自分の感情がうまく処理できずに苦しくなる瞬間がときたまある。だから普段は、大きく心が揺れたときには、出来るだけ何かしらの形で気持ちを整理するように心がけているつもりである。
今回も最終話を見た後に、感想とは別に、何か書いて残しておきたいなと思っていたのだが、これがなかなかうまくいかなかった。
二次創作という手段を使えば、特定の人物に心を寄せて特定のシーンを思い出して、そこに自分の解釈を加えてそれなりに物語を編みあげることができる。創作なら何か書けるかもしれないと思ったのだ。しかし思い立ってメモを開いてみても、何も書けない。
まじで、なにも、書けない。
書くとしたらえいちゃんの心情に沿った何かなのかなとイメージしていたのだが、私の心は彼の気持ちに共感することをどうやら拒絶したようで、本当に想像するだけでつらい作業になってしまい、何も書けなかったのだ。こんなことは初めてだった。
奥村英二の喪失感はあまりに重く、温度が生々しすぎて、私には耐えられなかったのかなと、そのときは考えていた。私はそんな自分を酷く情けなく思って、それが、アウトプットができないつらさに拍車をかけていた。
つまり、私は、この作品のアウトプットに失敗したまま、行き場のない感情を抱えて3ヶ月生きてきたということである。
◇奥村英二の喪失感と私の喪失感
えいちゃんの喪失感を想像することに耐えられなかった、という話をしたが、彼の喪失感とはまた別のところで、私自身が感じている喪失感があって、それはきちんと分けて考えるべきなんじゃないか、と最近思うようになった。順を追って話そうと思う。
まず、光の庭を読んだときに思ったことがあって、それが、これを読むことは私にとっての救いにはならないけれど、私は救われなくていいんだよな、ということだった。
光の庭は本編の後日談であり、場合によっては救いを求めてこの物語を手に取るということもあるだろう。私もきっとそうだった。私の中にあるこの喪失感を埋めてくれる何かがここにあるんじゃないかと、期待していたのだ。
けれどそうではなかった。いってしまった人が帰ってくるわけではもちろんなく、残された人はしっかり傷ついていて、私の喪失感はそのままに、夜明けを迎えてしまったのだ。置いていかれたような気持ちだった。夜明けというものは本当に待ってくれないものだ。
けれども私の中に落胆といった感情は少しも湧いてこなかった。むしろすっきりしたというか、これでいいんだという気持ちになった。変な気分だった。つらい気持ちはそのままなのに、すっきりした感じも心の中に同居していて、両者が矛盾なく存在する感覚が今も心の中にある。
ここで気づいたのは、えいちゃんの悲しみは彼だけのもので、私の悲しみとはきっと違うのだ、ということだ。アッシュのそばにいたのは彼だ。アッシュの魂を守って愛したのは彼だ。だから、彼の喪失感を、私が推し量り切れるはずがないのだ。そんなことはできないのだ。
じゃあ、私の喪失感、私の苦しさっていったいなんなんだ?という疑問が湧いてきた。これは次項で考えていきたいと思う。
◇行き場のない苦しみ
私の中の喪失感はなんなんだろうなと思ったときに、アッシュの人生を思った。うつくしくて強くて、それらが、傷つくことも振り返ることも自身に許さなかったようなその人生を。
最終回で、変なところでスタッフロールが入ったな、と思った。その瞬間に、私の中で天秤が振れる感覚がした。手紙がアッシュに渡され、そしてラオが現れた。あとは流れのままである。
私の中には、かなしい、つらい、が湧いてくる前に、そうだよな、が先に来てしまった。
そうだよな、そうなるよな。
そんな自分にびっくりする間も無く、物語はとても穏やかに終わっていってしまった。誰に対しても怒りを感じなかった。これは物語である前に、アッシュという人の人生の終着点だった。
アッシュは1人の人間としてたくさん殺してしまったから、私がこの世界にあると信じている天秤を傾けてしまっていて、これはどこかで天秤が戻される時が来るなというのはすごく予感としてあった。だからこそあんなに優しい終わり方をしたのは、天秤を戻してなお、アッシュの人生を神様がちゃんと両手ですくってくださったというか、そういう感覚がある。それは多分めぐりめぐって、えいちゃんの祈りが彼を最後まですくいあげてくれたということでもあると思う。
物語としても人生としても、完成されていた。納得できないところが少しもなかった。だから、その後に押し寄せてきた喪失感と苦しさの行き場が、どこにもなかったのだ。
えいちゃんはきっと、そうは思わないだろう。彼はアッシュの無事をなによりも願っていた。自分の魂をその側に置くことさえやってのけた人が、私と同じ感慨を抱くわけがない。喪失感は強くあるのに、失われていったことに悔しさも疑問も抱けず、納得してしまっているだなんて。
私の苦しさは、ぴったりと閉じられてしまっていて、本当にどこにも行き場がないのだ。だから、これを抱えたままえいちゃんの気持ちを想像することができなかったのかもしれない。きっと、彼に対して申し訳なさもあるのだろうと思う。
◇幸福を信じること
この苦しみを抱えて、これをどうしようどうしようと思いながら日々過ごしてきたけれど、光の庭を読んで、ああ、私は救われなくてもいい、と確信した言葉がある。
「ぼくは彼を忘れない、忘れようとも思わない、でもそのことが、ぼくが幸福じゃないということにはならない」
この言葉に至るまで7年間、えいちゃんはどれほど苦しんだだろう。それでも、奥村英二という人は、この言葉に至ることができる人間だった。想像を絶する喪失感を抱えてなお、失ったものを愛することをやめないまま、自分の幸福を信じようとする彼に圧倒された。その姿を見られてとてもうれしかった。私が出来ることは、彼の幸福を信じることだと、確信した。
私のこの人生をかけて、えいちゃんの幸福を信じたい。彼の在り方を、歩いてきた道を、信じて生きていきたい。光の庭は、そういうあたたかな希望をくれる作品だった。
私は救われなくていい。失ってしまったことに対しての悲しみが拭い去られることなんてない。楽になれるはずがない。それでも、えいちゃんが、彼自身の幸福を信じるならば、私はそれを信じるしかない。それが私に希望をくれたのだ。だから、私は救われなくていい。これは決して後ろ向きな感慨ではなくて、結構、前向きな気持ちなのだ。
◇終わりに
大変長くなってしまった。書いたところで、結局どうしたらいいのかなんてわからないけれど、こうして書けたことで少しは何かがマシになることを情けなく願っている。でも、3ヶ月経って私の中にあるものをやっと形にできた気がする。それは本当に良かったと思っている。
この物語を生み出してくださった吉田先生をはじめ、アニメにして届けてくださったスタッフの方々、勧めてくれた友人たちに心からの感謝を。
そして、この物語に出会えて、自分の心を丁寧に耕す機会を頂けたことを、心から光栄に思う。拙い文章をここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。