人を思う、在り方を考える
従姉妹が亡くなった。
従姉妹といえど、彼女は60代。私の親世代。
従姉妹も私も一人っ子であるということ、
また私が幼い頃から親を通じての外部の大人との繋がりはほぼ無かったし、
彼女は私の親と3人で時を過ごせる、貴重な存在だった。
小さな頃から、お年玉をいただいたり、お祝いを頂いたり、お正月にお家にお邪魔したり、よくしてもらった。
笑うと目が糸のようになり、福々しい笑顔を持つ女性だった。
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でも、私はどこかで彼女を通して
私自身を、私の父親と母親を、否定していた気がする。
彼女も一人っ子で、両親の性質や窮屈な関係性など、状況が私と似ていた。
田舎ゆえ両親や周りからの「婿養子をとるのが当然」という価値観は、私は彼女から徐々に植え付けられた気がする。
親の不仲、親同士の悪口を聞かされる、そんなアダルトチルドレン気味なところも同じだった。
だからよき理解者だったのかというと、そうでは無かったと思っていた。
私も嫌だけどこうした。だからあなたもそうするんだよ。我慢するんだよ。
そう言われているように感じていた。
だから、私は彼女や親や親戚の期待とは異なる道を選んだ気もする。
どこかで、そんな彼女を狭い世界で生きている可哀想な人だと思っていたかもしれない。
ちいさな町の噂話をする彼女を。
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彼女がこの世から去ってしまったと聞いた時、私は悔しくて、恥ずかしかった。
それでも、彼女はいつも私に愛情を注いでくれた。可愛がってくれた。期待してくれた。
私が何も恩返しできていなくても、いつも。
あの糸目の笑顔で、福々しい笑顔で。
それはそれ、これはこれ、じゃないか。
私はその中で嫌だったことに焦点を当てて、何度も思い出して言葉にして、「自分を正当化」したかったのではないか?
それよりも、似た環境にあった彼女がこれまでの人生、どんな思いで人生の選択をしてきたのか、
いやそんな大袈裟なことじゃなくてよくて、
大ファンだったアイドルのどこが好きなのか
なんのおやつが好きなのか
どこのスーパーによく行くのか
そんな他愛のない話を、もっとしたかった。
そんな話をしたいと思える、楽しい人だったから。
嫌だったことなんて、彼女が去ってしまった今、もう直接言葉を交わせない今、まったく大したことじゃないのに。
結局、私はその人自身を見ず、
私にとって快か不快か、
私にとって上か下か、
そんな狭くて偏った認識の中にいて、
単に私を正当化したくて、私がかわいかっただけのように思えた。
なんてちっぽけなんだろう。
自分に執着して、大事なものを見失った感覚だ。
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心から、相手を思うことがこれまで出来ただろうか。
相手に憧れたり、好きだと思ったり、尊敬したり。
それも結局自分のかわいさゆえではないか?
自分が、こうなりたい。
自分には、ない。
自分は、足りない。
自分以外の他者を思う、ってなんだろうか。
結局自分とは切り離せないものだけど、
でも、他者をなるべくそのままに感じたかった。何もジャッジせずに。
私は、この人は良い悪い、損得、好き嫌い・こんだけしてくれた・何もしてくれない…で、ジャッジしてしまう。
私が損したり、軽くあしらわれたりして、傷つきたくないからだ。
勿論鼻からそうしてくる人になんて、最初から用はない。
でも、彼女は明らかに違ったのに。
私は何を怖がっていたのか。
今思うのは、自分を否定すればするほど、近しい相手を下に見ようとしてしまったのではないかと思う。
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彼女が幸せだったかなんて、私が決めることでもない。
でも、周りのことを優先して生きてきた彼女が幸せだったのか?とつい想像してしまった。
おこがましい。
でもそれは、私自身が彼女と切り離せず考えてしまうからだ。似ているから。否定していたくせにわかっている。だから否定していたのだ。
ただ、そんなことを思いながら、私の胸に抱えた赤子の体温に気づいて、思う。
この子、赤ちゃんと過ごす日々は私にとってかけがえなく幸せ。
きっと人生を終える時、何が幸せだったかと聞かれたらこの日々だと答えるだろう。
一人っ子の彼女も、きっと子を2人産んで育てて、幸せだったと思う。達成感があったと思う。
残された私が納得したくてそう思いたいだけなんだろうけど。
思い通りの人生じゃなかったかもしれない。
それはみんなそうだ。
亡くなったとき、残された私にこんなに思いを馳せさせるだけの何かが、彼女にはある。
また会いたい。話したい。
病室から生家に帰った彼女に、今から会いに行く。
ごめんね、ほんとうにごめんね。
たくさんの愛をくれたのに返せなくてごめんね。
でも、本当に有難うね。
何をいえばいいのかわからないけど
ただ会いに行く。