[短編] 夜の情景
夜のコンビニ。誘蛾灯に集まる虫たち。少し離れたところにある公園。
暗がりの草むらの中、誰も知らないところ。車のヘッドライトが時折差し込むけれど、鈴虫は一人で鳴いている。
駅前のアーケード街の中、人の少ない夜中に一人でアコースティックギターを奏でる彼女を見た時、僕はふとそんな情景を思い浮かべていた。
肩まで伸ばした金髪を左右に分けて、彼女の星空のような深くて静かな声が震えると毛先もまた弦のように震えた。
閉ざされたシャッターの前で三曲を歌い上げたあと、彼女は夢から醒めたように僕を真っ直ぐに見た。丸い大きな瞳は水彩画のように澄み切っている。
「最近、毎日来てくれてますよね」
僕は少したじろいだ。歌のためだけに発せられていた声が僕に向けられた初めての瞬間だった。
「あなたも毎日歌ってますね」
「歌ってないと寂しくて。でも、そろそろやめようかと思っていたんです」
そう言って彼女は微笑んだ。
他にオーディエンスはいない。酔っ払いが一人フラフラと通り過ぎていくだけだった。
その場で座り込んで話を聞いた。
彼女は大学を卒業後にインディーズでCDも出していたが、仲間内でいざこざがあってバンドを抜けてしまったのだそうだ。
しかし、それでもプロの道は諦めきれず、バイトと夢を追って身を削る日々を過ごしてきたという。
僕には音楽の知識も楽器を鳴らす技術もないから正確には彼女の話をすべて理解できたわけではない。だけど、歌っていないと寂しいということについてはよく理解できた。
自分も実家の喧騒を離れて一人暮らしを始めたばかりの頃、何故だかそれまですごくどうでもよかったテレビの音が必要悪に思われてきたことがあった。
今では仕事に追われてアパートと会社の往復をする毎日。僕はただの消耗品になっていた。
その消耗品が仕事の帰りにふと、希望と愛を歌う売れない歌手の絶望を見た時、漠然とした感情が芽生えた。
失望とは違う。自分の生きるこの社会に対する仕方のない諦念のようなものが——まるで会社のビルの冷たい灰色のコンクリートのような壁が——人生の三百六十度、全周囲にそそり立つような感じだった。
僕は彼女から聞かされた話に頷くことしかできなかった。現実を受け入れざるを得なかった。脳裏に浮かぶどんな励ましの言葉もすべて絵空事に思えた。ただ、現実は厳しいという当たり前の言葉が何よりも重たく、固く、頭の中枢に身を結んでいた。
「あなたは優しい人だね」
話を聞き終えて何も言えずにいた僕を見かねて彼女はそう呟いた。途端、頭の中にあったものが溶けていくような気がした。
ややあってからようやく言い返せた。
「そう言われたのは初めてだよ。いつも、気が利かないとか、冷たいとか言われてきたから」
「それは多分、言葉がすべてだと思っているからでしょうね」
僕はその分析をとても意外に思うと同時に好ましく感じた。
「君は言葉をつむぐ人なのに、言葉を絶対視してないんだね」
「言葉について考えるほどに言葉の可能性と、言葉の限界を感じる。だから、音楽に可能性を求めたの。でも、わたしの可能性は足りなかったみたい」
自嘲気味に言って彼女は立ち上がった。
「じゃ、またどこかで」
黒いギターケースを背に負って、まるですぐにまたどこかで会えるとでもいった軽さで彼女は歩き始めた。
僕にはもう二度と彼女には会えないような気がしてならなかった。
気の利いた返事もできないまま、アーケード街の地平線へ遠のいていく彼女の背中は次第に小さくなっていった。
自分の意思と足で歩き続けることしか今はできない。未来はわからない。過去は既に閉ざされている。僕らは今何かをすることでしか何かを成せない。
僕は実家の押し入れに眠る筆と油絵具のことを思い出しながら、反対側の道へと向かって足を踏み出した。
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