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知性について

 私は、元来口下手である。今でも正確に自分の考えを話そうとすればするほどに言葉に詰まる。
 変な話だが、これはおおよその人が体験したことがあるだろう。意識しすぎてうまくいかないということを。
 たとえば、人前に立ってスピーチをしなきゃならないとする。別に自分の思ってることを好き勝手言って、特に何の批評も受けずに過ごせるならどうってことはない。
 ところが、人前に立つからにはちゃんとした話をしようとか、何かジョークでも飛ばそうとか、ウィットに富むトークをしようだとか、考え始めるとなかなかこれがうまくいかなかったり、下手するとギリギリまでなにを話そうかすらまとまらず、普段は普通に他人と会話している大の大人がどこかしどろもどろになって変な話を捻り出して、陰で「あの人、変よね」なんて言われたりする。
 私は、知性というものにはある種、そうした「意識しすぎることによって低レベル化する作用」というものがあると考えている。
 上記の例は極めて卑近なものなので、もちろんとてつもない頭脳の持ち主、トークスキルの持ち主なら当てはまらないだろう。
 ただ、それでもそれならそれで起こりうる限界点が現れる。
 先のスピーチの例で語るならば、たとえば凄まじいトークスキルを持つ達人がいたとする。彼はその持ち前の技術であらゆるトークショーに呼ばれ、テレビにもラジオにもYouTubeにも出て、収益を得ている。
 彼は自らの能力の優越性とその成長が、わかりやすい金銭的価値として評価されて、なに不自由なく暮らしている。
 最初は「毎日、精進」と思って、自分の出演した番組を見直して改善点を模索する楽しみもあった。日々是唯充実、不知不足。
 ところが、ある時から改善点など見つからないし、ライバルもいないし、他人のトークショーやら司会やら見ててもつまらないし、挙げ句の果てには愛する妻との会話すらつまらなくなった。
 以来、彼は外界との関わりを一切絶って引きこもった。引きこもって、今まで触れてこなかった漫画を読んだり、ゲームをしたり、映画を見たりしたらそれはちょっと雷に打たれたような具合で、彼には大層面白かった。ただ、黙って他人の作品を摂取するだけの行為がこんなに楽しかったなんて知らなかったのだ……。
 ——この話は彼が死ぬまでまだまだ続けられるのだが、このストーリー的仮説が物語っているのは、単一の解を突き詰めると退屈という壁にぶつかるということだ。
 例えば、生というものを言葉だけで探究しようとした際に上の例と同じことが起こる。言葉の上ではすっかりわかった気になって、そして非常につまらなくなる。で、気分が陰鬱になったり、人生に楽しみを見つけられなくなったりと厄介なことにもなりかねない。ところが、言葉の上では理解して大層退屈になったので今度は、言葉だけではなく生きているからには実際にいろいろやってみようと生を謳歌するのであれば大変これは実証主義的で結構なことである。いくらでも自分の人生を使って自らの仮説を検証していけばいい。
 行動や実際的な経験も含めての知ということであるならば、人生を有意義に使えるだろう。ただ、あくまでも言葉だけを使ってどうこうしようとしたって限度がある。言葉には大いなる力がある一方で、言葉だけで語られるものには限界がある。
 言葉と思考の限界は一致するかどうこうについてはヴィトゲンシュタインが自ら肯定し、のちに否定したくだりで十分であろうと思う。
 そしてまた、そうした他人の思考展開というのは大変興味深いものであるけれども、やっぱりそれらをそのまま受け入れるだけではいけないとも思う。
 知の探求とは、言葉だけで突き詰めていいものではない。言葉だけでわかった気になるのは大変につまらないし、危険だ。
 人の生を短いと嘆くのは自由だし、実際その通りだし、その通りだからなんだというのだということを人生を通して体験し、痛感し、謳歌して初めて生を語りうるのだ。
 若かりし頃、私もまた人間の、自分の生を思い、嘆いた。(といっても私もまだ30を過ぎたばかりなのだが)
 宇宙の歴史から見れば塵芥も同然、吹けば飛ぶようなものですらなく、無いものも同然。そういった知識から生じた生の軽蔑はすなわち、体験から起きたものではなくて、本で読んで知った慟哭から生じたにすぎない。たしかに世界何十億の人口からしたら私一人の存在などどうでもよかろう。しかし、私を知る周囲の数十人にとって私はどうでもいい存在ではないし、それで十分なのだ。いや、それだけではない。誰も私を知らなくても、私が私であるという事実。これだけは揺るがないし、私がたまたまこの私だったというこの奇跡にはまったく敬服するしかない。私が私を嫌おうとも、私が私を好こうとも、私という存在は揺るがない。
 いくらでもさまざまな単位や数と自分を比較して、自己を矮小化することは可能なのだが、それは言ってみれば1と100億はどちらが多いか?という初めから勝ち目のない対立をわざわざ用意しているようなもので、それはジャイアントキリングにすらなり得ないナンセンスな命題である。
 もし、知性に行動と経験を含むのであればそれは一向に問題ない。知識だけに根ざしたものを知性と呼ぶのであれば、私はそのようなものを好まないし、否定する立場にある。
 というようなことを、三ヶ月前に映画「イノセンス」をあらためてNetflixで見ていて考えたのをふと思い出した。
 攻殻機動隊の最初期の劇場版を近所の映画館にてiMAXで放映するらしいのだ。行こうか行くまいか。この話の流れからすれば行くしかないのだろう。

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