[短編] 男子生徒
高校一年の夏休みを直前に控えた七月。
宿泊研修が終わると、教室内には目には見えない仕切り壁のようなものができていた。
生徒たちは授業後の休み時間ごとに、それぞれ気心の知れたメンバーと離散集合を繰り返す。
理美子は同じバレー部同士の三人の女子生徒と過ごすことが多かった。
昼休み、いつもの三人で机を向かい合わせて食事していると、教室の隅で一人で弁当を食べている男子生徒のことが気になった。
磐井夏樹というその生徒は黒縁の眼鏡をかけていてるせいもあってか、いつも陰気な表情を浮かべいて、いつも一人でいる。誰かと話しているところや笑っているところを見たことがない。
「ねぇ、磐井くんってハブられてるのかな?」
理美子が二人に尋ねると、沙希が「さぁ?」と興味なさそうに答えた。
「別にハブられてるわけじゃないと思うけど」
美津子はそう言ってなぜか意地の悪い笑みを浮かべた。「もしかして。理美子、興味あるの?」
「そんなんじゃないって。ただ、ああやって一人でいる奴見るとなんか気になるっていうか、仲間外れにしてるような気持ちになっちゃって」
「理美子は優しいんだね。でも、気にしなくて良いと思うな」
沙希は仲間内も含めて他人に対してはとことんドライだ。
「まあ、そうだよね。別に話すようなこともないし」
とは言ったものの、理美子はそれからなにかと磐井夏樹のことが頭の隅っこで妙に気になるようになった。
彼女には、あんな風にいつも一人で誰ともしゃべらずにいる学校生活が地獄のように思えた。
自分たちはたまたま同じバレー部で仲間ができたけど、あんな風に孤独に過ごしている生徒が同じ教室にいるというのは彼女の心の平穏を乱すのだった。
それは例えば、どんなに幸せな生活を送っていてもテレビやネットのニュースで事故や事件、紛争や災害で命を落とす人がいるのだということを見せつけられると、罪悪感を覚えるというのに似ていた。
夏休みの前日、全校集会が開かれた。
生徒会長の話が終わった後、美術の授業を担当している老齢の教師が登壇した。
「えー、今日はみなさんに大変嬉しいニュースがあります。一年五組の磐井夏樹くんが、春の水彩画コンクールで知事賞を受賞しました。これが受賞した水彩画です」
照明が少し暗くなり、背後のスクリーンに大きく絵が映し出された。風の吹く草原の中を鑑賞者に向かって疾走してくるような蒸気機関車が躍動的に描かれていた。
「——これは写真なので少し分かりづらいかもしれませんが、原画はしばらく美術室の額縁に飾ってあるので興味のある方は是非ご覧になってみてください。みなさん、どうぞ磐井夏樹くんに盛大な拍手を」
そう言って手を叩くと壁際に立つ教師を中心にまばらに拍手が鳴って、ひそひそと「え? 誰?」とか、「え、アイツが?」といった称賛ではなく疑念の声が蚊の羽音のように聞こえてきた。
理美子は疑っているわけではなかったが、あのいつも一人でいる地味で陰気な男子がそんなすごいことをしたのだということに呆気にとられてしまった。磐井夏樹は最前列で微動だにせず立っていた。今どんな気持ちでいるのかはさっぱり読み取れない。結局最後まで理美子は手を叩くことができなかった。
その日の放課後。
トイレ掃除の当番を終えた理美子は急いで部活道具を取りに教室に戻った。
掃除当番ではなかった沙希と美津子はすでに体育館に向かってるはずだ。
教室の戸を開けると傾いた陽の射す中、たった一人で磐井夏樹が自席に座って何か書き物をしていた。
理美子に気づいた彼は黒縁メガネのレンズの向こう側から鋭い視線で侵入者を威嚇するように見たが、すぐにまた視線を机の上に落とした。その様子に理美子は少し怖い、と思ったが恐怖心に反発するようにして足早に教室の後ろに置いてあったスポーツバッグを手に取った。振り向きざまに彼の背後から机を覗き込むと、思わず「すごっ」とため息を漏らしていた。
磐井夏樹は、目の前にある夕方の誰もいない教室を正確な筆致でデッサンしていた。窓の透明感や机の照り方まで全て鉛筆一本で再現していた。
彼は理美子の声にはまるで気づかなかったかのように鉛筆を走らせている。
というよりかは、もはや理美子の存在自体がこの空間にいないかのようだった。
理美子は息苦しさを覚えた。一人の職人の仕事場に足を踏み入れてしまったかのような重々しい空気を感じた。
鉛筆と画用紙が擦れ合うサッ、サッという音だけが正確に聞こえてくる。
理美子はなるべく音を立てないように静かに教室を出た。
廊下に出て、ようやく深呼吸した。脈は乱れていた。
体育館に向かう道すがら、静謐な教室の一番後ろの席で一心不乱に絵を描く男子生徒の後ろ姿を思い出していた。
黒髪の下に覗く火に焼けていない白い首筋までもが生々しく脳裏に焼き付いていた。
そしてまた何故か腹立たしくも思えてきた。
磐井夏樹が他の男子生徒とつるまないのは、多分意図的なものだろう。彼はきっと絵を描くこと以外に興味がないのだ。そして、彼は彼なりに高校一年生前期の最後の日に何かを想って教室を描きたかったのだろう。
彼が孤独に見えているのは私の心の中の出来事であって、彼には彼の満足というのがあるのだろう。
「おい、松沢! なにやってんだ!」
不意に名前を呼ばれて、理美子は我に返った。レシーブの練習中、気がつくと上の空になっていた。脇を抜けたボールが後方の壁にバーンと当たる音がした。
「おい、集中しろ。一週間後には試合なんだからな」
顧問に叱られて、理美子は「はい!」と自分を奮い起こすように返事した。「もっかい、お願いします!」
緑色のネットの向こうにいる三年生の先輩がボールを高く放り上げた。イルカのようにジャンプすると勢いよく右手がボールに叩きつけられ、みるみる目の前に迫ってきた。
なんとか追いついて両腕で上に弾く、ジンジンと腕が痺れる。
ふとまた、体育館のスクリーンに映し出されていたあの蒸気機関車の力強い姿が思い起こされた。
いつか、わたしも先輩を超える鋭いサーブを打ってやる。
決意すると、腕の痛みは気にならなくなっていた。
明日の練習前、美術室へ行ってみよう。
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