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[雑記] 思想のファッションショーと余談

念のため、最初に断っておくと私は特に何らかの特定の思想や宗教を信奉しておらず、自分の考えを他人にも広めようなどとは考えていない。

強いて言えば、私を含めて人間の思考は自由であり、束縛したり、抑圧する対象ではないという信念を持っているくらいである。

だから、ネット上でこうして何かを発言する以上はそれを見た誰かが反対意見を述べたり、私の価値観を否定するようなコメントを述べる可能性のあることを念頭に置いているから、それ自体にはとやかく言うつもりがない。

そのため、これは多分今のご時世、繊細な問題を孕むかも知れないが、インターネット上で発信した情報に対して反対意見や否定的なコメントがつけられること自体に嫌悪感を抱いてそうした他人の考えをブロックしたり、見向きもしないという行動に対してむしろ私は違和感を覚える。もちろん、侮辱的な発言や人間性を否定するような批評はこれに該当しない。そのような粗野かつ想像力の欠落した発信が人を死に追いやることがあるのはすでに過去の悲しい事件が証明済みであり、それ以上はもう十分である。

私は、とある思想についつい考えた時、それがとても皮肉的な顛末を描いていることに対して、悲哀を覚えて、顔面には悲劇的微笑を浮かべずにはいられないことがある。

考えてみれば、「自然・動物保護」、「女性の社会進出」、「人種差別の是正」、「SDG's」、「ポリコレ」といった思想、思想活動はその始まりこそは純粋な善とした魂の持ち主がいたのだと信じたいが、思想もファッションと同じでその考え方を有し、発言、行動することでそれが社会的ステイタスとなり、時代のリーダーや先駆者、伝道師、体現者といったインフルエンサーになりやすいという性質を持つことに私は着目した。

それ故に、純粋にその思想に染まり、活動しているというよりもその思想を着こなすことで社会的権威や地位をかさにきて発言力を増し、知名度を上げるという結果をもたらすので、これは政治家や資本家と非常に相性のいい組み合わせとなる。

政治家にしてみればそのような時代のモードに合わせた思想を代弁するだけで、社会の最新問題を認識していることをアピールできるし、多数から支持を得ることが容易となる。資本家にしてみても、自社の製品やサービスの知名度をあげるために時流の思想に沿った製品、サービスを開発してそれを宣伝することは重要な営業活動の一つとなる。

加えて、政治家をはじめとした著名人の多くはむしろ世間を敵に回さないようにするための自衛としてもその時代の思想を学ばざるを得ず、その思想に異議を唱えていると捉えられかねないような発言を含めて批判的なコメントや行動をしにくくなり、そのようなリスクを採ること避けるようになる。

そうなるとそれらの思想を広めたかった開祖にしてみれば目標達成とはなるが、次にはそれらの思想は打算的なものに成り下がる。人々が内心どう思っているのかに関わらず、その時代のモードを着こなすのが一流とされる。

しかしそれはただの勘違いである。すでにある誰かの思想を着こなすというのは要するに、虎の威を借る狐と同じことで、二流、二番煎じ、便乗商法に過ぎない。一流の人間とは自ら何かを産み出し、主体性と責任を持ち、周りに抗うことのできる独立心を持った人だ。

流行の便乗者たちにより、結果的に社会は変化を避け、保守的になる。その抑圧がやがて次の爆発を生み、また変革の時代を迎えるのだろうか。それはまだわからない。

一つ、ここに具体例を残しておくことにする。

日本における女性の地位向上の歴史を1911年結成の青踏社に起源を見るならば、その後も世界恐慌や世界大戦の影響があったとは言え、なかなか状況は変わらなかった。敗戦後にGHQ主導の元、女性の参政権がようやく法的に認められる。その後、日本人女性の地位向上、社会進出はあたかも日本が先進国として女性の権利を認めて、その自由を担保することを受け入れてきた歴史のように見えるが実際にはまったくそうではないのではないかと私は懐疑的である。というのは女性たちの地位向上のための運動の歴史に紆余曲折や先人たちの苦節があったというこよりも、政治的打算が透けて見えるからだ。

第一に、GHQ主導のもとで女性に参政権が認められたのち、日本政府は1984年までの間、日本国内の女性に対して具体的に何かしてきたわけではない。

戦後すぐに第一次ベビーブームが起きたのち、その子どもたちが親世代になる1971年から1974年にかけて第二次ベビーブームが起きた。しかし、この時点ですでに日本では少子高齢化の兆しがあった。その後の国の趨勢を憂えるならば女性の社会進出を促すしかない。そこで女性の地位向上というもっともらしい付加価値もつけて1984年にようやく男女雇用機会均等法が制定されるに至る。

これは将来予想される国民年金の崩壊、社会保障制度を維持するために女性にも働いてもらう必要が出てきたからだったのではないか。

なぜか女性の労働進出が先に推進されてから15年も経った1999年になってからようやく労働環境だけではなく、社会的に女性の地位を守り、チャレンジを推進しようとする男女共同参画社会基本法が制定され、DV防止法やパートタイマーの労働法の改正がようやく行われる。女性のことをまず国が守ろうとするなら順序が逆ではなかろうか。

(なお、男女共同参画基本法に基づいたその後の政策計画は現在も続いており、2020年には政治や司法、行政などのこれまで男性の人材が多く占めてきた職種における女性の人材率を30%に引き上げることを目標にしていたが2024年現在も達成しておらず期限を設けない将来目標に据えられている)

その後も日本政府は少子高齢化がさらに加速すると日本政府は一億総活躍時代などといって定年退職の年齢を引き上げ、年金給付時期を遅らせ、高齢者にも働かせようとする一方では日本はいまだに国連で提出された女性差別撤廃条約選択議定書を批准していない。

日本は批准しない理由を、他の人権救済条約と同様「司法権の独立を侵す可能性がある」という見解を示している。要するに国連の採択した議定書を批准することで日本独自の司法権の独立に差し障るリスクを警戒しているということなのだが、別に議定書には法的拘束力やペナルティが設けられているわけでもないので、そこまで頑なになる意味がよくわからない。

結局のところ、日本政府が女性の社会進出を促した理由は、女性の地位向上などではなく、共働きを推奨し、税収を増やす目的に過ぎないのではないのか、そう疑わざるを得ない。

結果、女性たちが男性に頼らなくても一人で生きていける社会が誕生し、むしろ一人の方が気楽、男性は自分勝手で信用ならん。女性の方が信用できるという考え方もできるようになった。これは男性側についても元々同じことではあり、だからこそ昔は独身貴族といえば独身男性のことを指す用語だったが、今や30代前半の男女の半数近くがお互いに独身貴族ないしは独身非正規社員となってしまった。

となると、めぐりめぐって少子化は進む一方であり、日本政府が目論んだ税収増加のための女性の社会進出が長い目で見ると皮肉なことに自分たちの首を絞めたようにも思えてくる。

別に私は、女性たちに社会へ出るなというつもりはないし、社会的地位の向上を目指す女性や専門分野における女性たちが性別を理由に能力を存分に発揮できないでもがいている事例については問題意識を持つ。しかし、別に全ての女性がそのような向上心を持ち、社会貢献をしたいわけではない。男性だとてそれは同じことなのだが、とにかく高校大学を出たら正社員になって働くことがあたかも理想であるかのように刷り込まれてきた。

女性たちの中には、自分はほどほどに働いて男性に養ってほしいと考えている人や、出産後には職場復帰ではなくパートタイマーをして少しお金を稼ぎつつできるだけ子供といたいと考える女性たちもいる。

すべての女性たちを等しく社会進出させ、競争社会に身を置かせるというのはあまりに乱暴な扱いであったように私には思える。

晩婚化の背景には間違いなく女性の社会進出は影響している。二十代はがむしゃらに働き、三十過ぎてから結婚しようとしてもなかなか出会いも相手も限られてくる。しかも働きながら相手を探さなくちゃいけない。相手が見つかっても働いてるから休みが合わなかったり、忙しかったり、仕事のストレスや疲労で会う気にならなかったり、八つ当たりしてしまったり碌なことがない。悲しいかな、私は職場でそういう女性たちを見てきたのだ。いつしか私の職場には「三十過ぎてもここで働いている女性には幸せな人が誰もいない」というジンクスが囁かれるようになってしまった。

これは職場環境が悪いのではなく、良くも悪くも男女が平等に扱われるオフィスワークにおいて、女性は男性と同等に働くことができ、そしてそれが当たり前であり、社員の性別を意識的に意識させる必要性が排除されている。無機質な言い方をすれば、社員は労働単位でしかない。

私は昭和時代の会社を知らないが、おそらくその頃の女性社員たちは男性社員にアプローチするための余裕があったように思う。いわゆる、お茶汲み仕事とは向上心の高い女性には屈辱だっただろうが、そうではない人にとっては絶好の「品定め」のタイミングだったのではないか。

そしてまた会社も社内恋愛を大いに認めていて、人事もそれを見越して若い元気な女性を毎年採用していたのではないか。この旧時代の問題は今とは逆に女性たちを十把一絡げに、男性に対する隷属的なものとして扱った点が問題だったのであろう。

近代国家の男性は、国家や会社といった集団と組織に隷属、奉仕するということを教育され、そしてまたそうした父親を見て育ってきた歴史がある。その結果として、社会に従事する男性が結婚して子供をもうけた場合、彼と子供を家庭で支えるのが成り行き上、女性しかいないことになる。

その歴史がおそらくは男性の女性の社会上でのパワーバランスを決定した。(家庭内では母親が強かったようだが)

今、そのようなパワーバランスは崩壊し、そもそも男女間にそうした天秤を持ち込むこと自体が既に差別的だとさえされている。

となると、誰が結婚して子供を産んで家庭を守るだろうか。男はもう女に押し付けるのではなく、互いに働きながら、互いに協力するしかないが、それすらも限界があるので、育児休暇をとったり、育児休暇を終えた後も、子供のために仕事を休んだり、子供が熱を出したら早退したりしなければならなくなる。

そうすると職場の仲間に負担がかかる。大抵の人はその負担を受け入れてくれるが、どうしたってそれにも限度があるし、表面では受け入れていても内心はどう思っているのかわからないから菓子折りを渡したり、なにかと気苦労が絶えないことになる。

これはまた余談だが、私が思うに、共働き社会においては性差を否定するのではなく、その差を正しく認知してむしろその差を縮めようとする試みが必要である。男性の中にも女性的な性質と、女性の中にも男性的な性質があり、男女の間柄においてそれらの配分がバランスよく発揮される時は二人の仲は円滑になる。

ところが男女ともに男性的過ぎると互いに衝突し、しかもそれが切磋琢磨するならまだしも、どちらかに相手の性別を見下すような態度があった場合はたちまち二人の関係は破綻することになる。

女性の男性化と男性の女性化がうまく噛み合えばそのような悲劇は回避されるのだろう。

それ故、女性の中にもいわゆる男らしい男よりも、女性的な男性を好む傾向が現れるのも非常に得心する次第である。





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