【雑記】 子供が産まれてから考えていたこと
2024年2月4日14時17分、我が待望の第一子が産まれた。
変な話に思われるかもしれないが、私が自分の子供が欲しいと最初に思ったのは小学校五年生の時だった。
経緯は忘れてしまったが、登校中だったのは覚えている。同級生のM君と遭遇し、おしゃべりをしながら歩いていた時、彼が『子供欲しい』と言い出した。理由を尋ねると、『自分とは別に自分とは違う人間が自分の一部を持って近くにいるって面白くない?」と逆に訊かれてしまった。言われてみれば確かにそれは興味をそそられるシチュエーションである。
以来、私は漠然とではあるが自分に子供がいたらどれだけ楽しいだろうかと想像するようになった。
月並みだが、一緒にキャッチボールをしたり、遊園地に行ったり、海水浴に行ったり、なんだか楽しそうではないか。とは言え、それは自分が父親にしてもらったことであって、自分もいずれは子供にそうしてやりたいという自分の素直な欲求であった。父親だからそうしなきゃいけないといった義務感などではなく、あるいは、自分が父親から受け継いだ喜びの記憶を遺伝子の如く次世代に繋げていきたいなどといった壮大な思想でもなく、純粋な喜びとして——ある見方からすればただのエゴとしての——それが楽しいからというだけのことに過ぎない。
そうだ。そもそも妊娠、出産とは親のエゴである。私がまだ若かった時分、私は自分の生を肯定できずにいた。
そんな折、『山月記』(著・中島敦)の一節にある『理由も分からずに押し付けられたものをおとなしく受け取って、理由も分からずに生きてゆくのが、我々生き物のさだめだ。』に対して深く共感したものだった。
そういうこともあり、私は子供を欲しいと思いながらも、半ば子育てというものが脈々と続く親のエゴなのではないかという嫌悪の情を自分の中に内蔵しつつあったのだが、結局のところそれは自分の中でだけで構築された狭くて潔癖な世界観の中での話だった。
社会に出てからたまたま今の妻に出会い、生まれて初めて心の底から相通ずることのできる異性がこの世にいたのだと知り、一生を共にすることを胸に秘めて交際を始めた。
しかし、初めて二人で喫茶店でコーヒーを飲んだ時、胸に秘められていた箱は簡単に開いた。
私がいきなり、「子供が欲しい」という話をしたことに妻は内心、面食らったのだと後から聞いたが、当時の彼女はそんな私の唐突な話題すらも聞いてくれたのだから大したものである。一方の私は、その言葉は別に変な意味でもなんでもなく、ごく真面目に話していたのだし、妻もそれを感じ取って誠実に向き合ってくれていたらしい。
交際して五年目。結婚を申し込み、不遜ながら当たり前のように承諾してもらい、紙きれ一枚の婚姻届の軽々しさが私たち二人にとっての重大な結婚を認めうるものか訝しんだものだった。
それからさらに六年後。妻が妊娠してからは毎日が新鮮な気持ちになった。
ふとした時、自分たちは「1+1=2じゃなくて3だったんだ」と自分なりに気づいて機知に富んだ大発見だと思った。
が、しばらく後になってから、そういうプロポーズの仕方が実は既に人類によって発見済みであり、おまけにそれは昭和レトロの遺物なのだと知った時、私は『三角形の面積の求め方を自分で発見したのに、あとから公式が既にあることを知って驚いた子供』の姿を脳内再生した。
なぜ、わざわざそんな脳内再生が成されるのかと言えば、それはもう私の脳が勝手にそういう作りになっているからであって、ある意味ではAIみたいなものである。おじさんのつまらないギャグとかと一緒だと思って欲しい。つまり、親父ギャグだとてそれまで培ってきたビッグデータを参照、引用して、つい本人は得意になって声に出しちゃうからその半径数メートルだけは氷河期になって地球温暖化に対抗するささやかな貢献をしているのだろう。
話はそれたが、そんなこんなで子供が産まれてから色々なことを考えさせられた。
この記事をどれだけの人が読むかは分からないが、一つはっきりと言っておきたいのは、何年間にも渡って(そしてこれからも)、SNSや掲示板に書き込まれてきた夫婦仲の愚痴やいざこざというものは一般化しちゃいけないということだ。
つまり、「はーん、そういう人たちもいるんだなぁ」くらいの認識で良いということ。そうした家庭が世の中の何パーセントを占めてるのかなんて分からないし、どうでもいいことだと思ってた方がいい。
だって、結婚して、その生活がどうなるのかなんて自分たち次第なんだから。他人のことから学びを得るのは悪いことじゃないが、他人の感情に巻き込まれて一緒にネガティブになるのはまったく嘆かわしいことだが事実としてSNSやらインターネットというのはそういう力がある。
ちょっと考えてみて欲しいのだが、もしも自分の幸福がなんであるのかを理解できていて、何か問題が起きても自分たちの力で解決でき、自分のことを等身大で容認できている人間がSNSや掲示板で結婚生活や子育ての幸せを積極的に発信するだろうか。いや、しないのである(反語)。
すると、何が起きるか。SNSや掲示板には、夫婦生活や子育ての不満や愚痴、いざこざについての相談、あるいは自己の承認欲求を満たすための投稿が跋扈する。
中には、自分たちの家族や子供とのやりとりを興味深く、あるいは面白く文字や漫画なんかで発信してくれる人もいるがそれにはある種の才能が必要だから希少なのだ。
なんであれ、大抵の場合がそうであるように悪いものほど大きく吹聴され、燃え上がり、その炎に映る影を見て蚊帳の外の人々も怯えることになる。
だから、私はそうした炎に対する一つの消火栓としてここに書いておく。(※ただし、この消火栓も一般化できない。友人からも私たちのような夫婦は珍しいと言われてしまった)
【結婚してよかったこと】
1. 自分とは異なる性質を持つ良き理解者、支援者が近くにいるということは、自分の世界を広げ、生きる喜びを増やしてくれる。(というか、私たち夫婦は互いに互いがそういう相手同士だったから交際したし、結婚できた)
2. 結婚式の祝辞みたいなことを言うが、実際に『喜びは2倍以上でさらに加速する。悲しみは半分以下となりさらに低下する』ということ。しかしそれはお互いにそうしようとして義務的にそうなるのではなく、相手を想えばこそ自然とそうなるというだけのことである。(余談だが、おそらく結婚という行為の最初の悲劇は相手のありがたさに慣れてしまって、相手のことを想えなくなることだろう)
3. 基本的に大好きな人間が近くにいるから単純に幸せ。(人によっては夫婦でもずっと一緒にいるのは疲れるとか、自分の時間も欲しいということもあるだろうがそれは各自の自由である)
4. 過去の辛い体験や苦しみはすべて、自分が妻に会って、妻と幸せになるために必要な経験だったと思えばこれまでの半生を肯定する事ができ、これから先の人生についても楽観的になれた。
【子供が産まれてよかったこと】
1. 生きる喜び、笑顔が増えた。
(子供の日々の成長、笑顔が嬉しくて楽しくてしょうがない)
2. 将来に対する勇気を得た。
(世の中、暗いニュースが多いから未来が暗澹と見えて思考停止してしまいそうだけど、子供の将来のことを考えるとそうも言ってられないのでちゃんと未来のことを考える力を得る)
3. あらためて生きててよかったと思えた。
(自分がこれまで生きてきて培ってきたいろいろの知識や考え方、経験が子育てに役立ったことで自分の半生は百点満点とは言えなくても及第点だったと思うことができた)
4.他人に寛容になる。
日々、子どもは少しずつ成長しているがどこかにターニングポイントがあって急に成長を感じる瞬間にいちいち感動する。そのたびに、自分を含めて周りにいる人々、この世界の人々はこうやって成長していったということの実感が湧き、何やら神妙な気持ちになると、この世界を生きる人々に対する畏敬の念を抱き始めて、なにやら宗教じみてくるが、とても寛容な気持ちになる。
そして、以上のことがすべて、単に私の運が良かったに過ぎなかったということと、その運をつかみ、離さないために私が必要なことをしただけだということについて考えずにはいられない。
私は、子供の頃、妙に信心深かった。世界は因果応報であり、天知る地知るで、目に見えない力に支配されているような気がしていた。
しかし、私はあるとき、気がついた。
たしかに偶然の産物や奇跡のようなものは存在するが、それらを活かすも殺すも自分次第だということに。
人は、産まれた環境を選ぶことはできないが、自分を変えることはできる。場合によっては環境を変えることもできる。ただし、生まれた環境がその内部にいる人間の認知に制約や偏向を与えてしまうことがある。
子供の頃から周囲に愛されて必要な教育を受けて育った子と、虐待やいじめを受けて育った子供の脳の活動量の違いはまさにそれである。
だから、多少の環境の影響もあって、どこまでが環境要因なのかなんてことは一概には断言はできない部分もあるけど、それでもやっぱり自分を助けるのは最後は自分しかいないというのが私の人生哲学でもある。
もちろん、そうしたくてもできないからこそ苦しんでいる人もいるのだということは想像に難くないし、別にこの私的哲学を他人に押し付けるつもりはない。
ただ、私の場合には、"私"という存在は究極的には孤独だと考えている。どうしたって人は、一人の個々の集まりである。それぞれが独立した個だからこそ、自分のことは自分でなんとかしなければならないと考えている。
もちろん、他者との関わりは大事である。孤独な個はまわりと関係を広げ、世界を見、自分を発見することで成長し、一人では達成できない仕事をし、喜びを分かち合い、悲しみを癒すことができる。
それ故、一層自分を理解してくれる他者のありがたさに私は強く感謝する。そのとき、あたかも茫漠と広がる砂漠にそれで飽きずに信じて水を撒いてくれる人の情景描写が脳内に再生される。
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