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帰路

 すすきの中心から外れた二条市場にある屋根付きの横丁を出ると、たちまちに凍てつく風が頬を刺した。急いでタクシーを探そうと思ったが生憎見当たらない。
 仕方なく、すすきの駅方向に歩き出す。が、停車中のタクシーのフロントには悉く緑の「予約中」の文字。とうとう、すすきの駅前のニッカウィスキーの下まで来て希望のカケラもないと知ったのと、雪の白さに染まった往来にあまりにも人通りが多く、街が賑わっているので今日が金曜日だと気づいたのは同時だった。
 寒い中、順番待ちするのもいいが、すでに午前一時を半分以上過ぎていた。諦観と淡い期待を抱いて中島公園方面へと歩き出す。あわよくば空車のタクシーを見つけようという腹づもり。
 八ヶ月ほどぶりに同僚たちと飲んだくれてとうとう三次会にレトロなバーに入ったのはまあ良かった。図らずも今月が私の誕生日だというので一杯三千円もするウィスキーを奢ってもらえたことに私は内心涙した。
 いや実際、寒空の深夜、歩き続けるだけで自然と凍結から保護するための不凍液的な涙が眼球を潤すので、いつもにもまして白いすすきのが不審なくらい清潔でキラキラして見えた。のも束の間、風俗店の看板の嬢たちの加工された笑みたちが私を見つめていた。
 なんのことはない。わたしはそういう時に心がふたつに引き裂かれそうになる。すなわち、風俗店の存在は恐らくは人類には不可欠であり、そして同時に不可欠ではないという観念に囚われる。一旦そうなると周りのことがほとんど見えなくなり、特に歩いていると私の脳というのは恐らくは小脳の部位で帰路を目指しつつ、大脳のどこかで思案を開始する。
 こうした自己の引き裂きジャックは何も風俗店の電飾だけが引き起こすのではない。
 畢竟、私がこれまで生きてきた中でも、そしてこれから先生きていく上でもまた必ずや現れる引き裂きの名手である。
 バーで同僚たちは言う。要するには、上司が無能なのだと。
 まあ、結果的にはそうなのかもしれない。別に上司を庇うつもりもないが同時に私は上司をうまく使うのも部下の務めだと思う。上司にうまく提案したり、進言をして、表面上は顧客と会社のため、結果的には自分自身の評価と快い職場環境のために。
 以前にも同じことを私は飲みの席で同僚たちに伝えてはいるが私の言い方が悪いのか、彼らには受け入れられない考え方だったらしい。
 考え方は人それぞれだし、無理に上司に対する姿勢を統一する必要もないのだからわたしはこのことを真剣に議論するつもりはない。諦めているのではなく、それが現実だし、現実的に生きるというのは現実の型を受け入れる作業を含む。
 私がうまく上司を使っていきたいと考えるなら私がそうすればいいだけのことだ。それを他人に共感させようとか、強制させようと説諭し、喧伝するというのはあまりにも身勝手だし、行き着く先はただの独りよがりである。
 とうとう、中島公園駅前の交差点まで来てから、わたしはタクシーを捕まえられないでいる自分に気がついた。
 一度、すすきの稲荷大明神の近くで停まっているタクシーに手を振ったがすでに乗り込んでいた客にギョッとされたせいでそれ以降は勇気が出ないでいたのである。
 ここまで来てしまえば、もう歩いて帰ることを覚悟した方が気楽である。
 さすが金曜日だけあって、わたしの横を客を乗せたタクシーが通り過ぎていく。
 道程自体は何度も歩き慣れた景色だが、雪の積もった中歩くのは初めてだった。
 よく、人生は道に例えられるし、有名な詩もいくつかある。確かに似ているが、私が思うのはこういうことだ。
 ほとんどの人の場合、自らが道を切り開くことはない。開拓した後は大抵、すでにある道の往復がある。それは特に職場への出勤と退勤が意味しており、そして、同じ道を繰り返すうちにさまざまな発見や変化に気づきながら前進はし続けているが、歩く道はいつも同じといった観念である。
 繰り返すうちにやがて道草を食ったり、脇道に逸れてみたり、新たな私道をつくることもあるかもしれない。
 ただ、新たな道に歩み出したとして、これまでの道が消えるわけではない。
 実際の道路と違うのは、住む場所が変わったり、職場が変わるなどして、バラバラになった道でもそれぞれをつなぐことのできる観念上の道だということである。
 もし、あるゆる道を、他人の道程の失敗も成功をも、我が道のように考え、行動できるのならそれは凄まじいことであるし、私には小説とは作者と読者の時空間を超えてそうした力があるのだと信じて止まないのである。
 


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