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[雑記] ハラスメントについての思惟

「相手の嫌がることをしてはいけない」という基本的な社会規範はしかし、他者と自己の価値観が同一であることを前提としている。そしてまた、その価値観の内容は性善説に基づく。

 しかもその性善説が規定する善とはさらに「人間ならば普通はこうである」という経験則と常識に基づくのであるから、統計的な傾向を示しているに過ぎない。

 このため、極端な話としてよく引き合いになる「なぜ、人を殺してはいけないのか」という議論に関して言えば、「だって、あなたも殺されたら嫌でしょ」といった性善に基づいた理論展開は無意味になる。なぜなら、「俺は殺されたって良いから誰かを殺してみたい」と言われたらそれ以上には反論できないからだ。
 そのような発言者が本当にそう思っているのかどうかはまた別問題としても、スジとしてはそれで通ってしまう。

 しかし、現に多くの人は誰かに殺されたいと思ってはいないだろう。中には、仕事や人間関係や借金に悩み、寝ている間に誰か首を絞めて殺してくれないだろうかと願う人もいるが、それは眼前の解決できない苦しみから逃れたい一心で希求する逃避の心理あるいはノイローゼからくる思考停止もしくは鬱状態なのであって、それらの苦しみから解放される方法が死の他にあるのなら、別に殺されたいとまでは思わない類の悩みである。

 だが、本気で自分は殺されても構わないと思っているという人であっても、当人の嫌がること——それは本当に小さなことでもなんでも良いから——されたくないと思えることがあるのなら、それがやはり他者にとってもそのされたくないことの中身が異なるだけであって代入可能なXなのだという理屈は通せることになる。

 本当に何も一切、嫌なものがないという人がいた場合はもう、「あなたにはわからなくても、あなた以外の他者には必ず嫌なものがあるのさ。嫌なものとは誰かに意図的にでも無意識にでもされたくないもののことなのだよ」と説明するしかないが、まずそんな人間は存在しないだろう。

 生存、とはただ生きているだけで何かを取捨選択している。取捨選択している限り、そこには好悪の判断がある。好悪の理由が損得、合理的なものであったとしても、損をするのが嫌だ、あるいは非合理的なことが嫌いだからなのだ。

 つまりは、「なぜ、人を殺してはいけないのか」は、「なぜ、相手の嫌がることをしてはいけないのか」という命題の中に包括することで回答可能な質問となる。

 そして、ハラスメントについても同じことが言える。ハラスメントの定義としては、いくつかあるが要するに相手が不快に思ったのなら、自分の意図がどうであれハラスメントになるというものだ。これだけだと乱暴な概念に思われるのでさらに詳述していく。
 もちろん、ハラスメントがすなわち罪(刑法の違反としてではなく倫理上の違反)となるのではない。人とは不完全な生き物で、過ちを犯すし、言い間違いや、ちょっとした行き違いから相手に誤解を与えることもある。
そのため、ハラスメントの内容にも当然のことながら程度(軽重)がある。明らかに故意的な執拗なハラスメントは非常に問題となり、条例、刑法にも触れてくるだろう。しかし、当人のちょっとした言い間違いなどで他人を不快な思いをさせたのであれば大抵は当事者間でお詫びし、釈明すれば済むこともあるだろう
(それは当事者が決めることだが)。

 ところが、これが男女の仲になるもう少し厄介になる(LGBTQも含む)。

 世の中には、何回も異性に猛アタックしてようやく相手が折れて(?)、あるいは納得して結婚しているような夫婦もある。
 または、自分が恋心を相手に告げてしまうことに勇気が出ず、相手に迷惑をかけると思ってじっと真意を告げぬまま時期を逸して片思いのまま生きる人もいる。

 これらの実生活上の人々の恋愛の機微や変遷、懊悩は一概に断じたり、分類したり、統計として算出する性質のものではない。相手と自身の関係性や状況によるからなんとも言えないのだが、はたから見ればハラスメント的な行為の末に結婚しているようなケースもあれば、相手の迷惑になることを恐れてそれであればいっそのこと何もせず、何もできないまま一人で過ごすという人もいる(それが仮に独身であることの言い訳だとしても)。

 ハラスメントの定義は相手が嫌がっているかどうかと先ほどは述べたが、要するにこれは主観の要素が多分に含まれていることを意味する。

 先の「なぜ、人を殺してはいけないのか」という疑問と同じで、とある行為の被対象者側が嫌だと感じるのならば、その行為は実行するべきではないという保証をしない限り、ハラスメント被害を減らすという目的が達成できないことになる。

 もちろんそのハラスメントが実際に裁かれるべきものなのかどうかは第三者による調査や分析を必要とするが、人々の生活上起こりうる他人への好意、恋心を抱いている状態にとってハラスメントに対する意識は非常に大きなハードルとなるのではないか。

 そもそも好きな相手に対して自分の好意を告げること自体はハラスメントではなく、人間の自然な営みである。

 そして、好意を告げられた相手がそれを受け入れるかどうかも自由である。

 しかし、冷静かつ現実的に想像して考えて欲しいのだが、年頃の男女が仲良くしている場合ってほとんどの場合、片思いか両片思いのどちらかの状態から始まりますよね?

 で、いきなり告白しても勝算は低いからどこかの時点でうまいこと連絡先を交換したり、ある種の策略的な行動によってたまたま帰り道が一緒になるとかしたり、何度かやりとりや連絡を取り合って、互いの趣味や価値観や考え方なんかを知っていって、まぁよっぽど変なことがなければフツーはそのままお互い好きになっていくから告白することになる。あるいは、そういうプロセスを踏むためにいきなり交際を申し込んじゃうって手もあるけどこれは相手に片想いの相手がいないことが前提になるし、何か決め手がないと勝算は五分五分でしょう。

 というわけで、何かしら相手の行動と時間を制御してしまうのが恋愛なわけであるが、そのために「髪型変えたね」、「今日の服装に似合ってるね」などと話しかけることすらハラスメントだと言われ始めたら、もう人間はどうやって好きな人と距離を縮めるのだ?

 実際問題として、「髪型変えたね」の発話者の見た目や性格、言い方がハラスメントの可否の判断になっていやしませんか。
 そうなってくると、容姿のいい人はハラスメントの加害者にはなりにくく、被害者にはなりやすい。

反対に容姿の良くない人はハラスメントの加害者になりやすく、被害者にはなりにくい。

なぜなら、自称被害者にとっては相手の容姿が不快だったのだとしても、言動が不快だと認知されればその言動がハラスメントとして立件できてしまう。

そして、容姿が悪いことを理由に文句を言うのは逆にハラスメントになるのだからハラスメントという概念が浸透した後の世界では、容姿に関するハラスメントはされにくくなるが、容姿以外の言動がハラスメントとして立件されることが増えていく。
 これは、外見至上主義(容姿の優れていることを良しとし、容姿の悪さを理由にその人物を否定する価値観)を背景にし、ハラスメントの正当性を利用した弾圧なのではないか。

 「ハラスメント」という概念とその流布は間違いなく、不用意かつ想像力のない人々の不愉快な言動に迷惑していた人々を保護する方向のためにある。
 一方で、車や刃物などの道具がそうであるようにハラスメントという概念がルール化され、道具として操れるようになった時からそれは恣意的な使用を免れない定めにある。
 結果的に『ハラスメントハラスメント』という言葉が誕生したように、ハラスメント扱いの濫用が返ってハラスメントとなるということを如実に表している。
 
 ハラスメントの規定はそもそもルール化されるべきものだったのだろうか。
 「なぜ、人を殺してはいけないのか」と同等に扱うような倫理観にまつわる問題ではなかったのか。
 すなわち、「されたら嫌なことをしない」ということであり、その嫌なことが万人に共通するとは限らないので個人間で微調整する——そういった事柄だったのではないのか。

 だが、そういうわけにはいかなかったのだ。別に人間を卑下して喜びたいのではないが、つまるところそういった微調整の効かない事例が多々あったのだろうことは想像に難くない。すなわち、上司や部下のような力関係の違いのある者同士の間では微調整が行われにくく、一方的なハラスメントになりがちで、当事者間でそれに抵抗することが難しく、解決が困難であるために多くの人々が我慢を強いられてきたのだ。

 これは、言ってしまえば弱者救済のための強制的なルールの施行であって、同じ立場の者同士であれば従来通りお互いに解決を図っても構わないのだが、しかし一度こうしたルールができた以上は対等な者同士であっても「ハラスメントか否か」という判断基準が頭をよぎることになる。
 そうして、本当に対等な者同士なのかどうかについて双方が話し合うことなどないし、そんな話し合いなど無意味であるから、結局は「言いたいことを言う人」と「言いたいことを選ぶ人」と「言われたことに耐えるしかない人」と「言われたことに反論できる人」の四つどもえの様相を呈する。

 そんな混沌の中に生まれたのがハラスメントという概念である。それはある人にとっては当然の首輪となり、ある人にとっては救いとなり、ある人にとっては枷となる。

 枷というのはつまり、「言いたいことを選ぶ人」に対しての追加の判断基準を与えたことである。

 救われた人がいるのならひとまずそれでハラスメント闘争の最初の課題は達成したと言えるだろうが、今後は男女平等論のように少しずつ実際上のケースごとに人々の知見と考察、議論が構築されていくしかないのかもしれない。

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