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水面下の足掻き

これは、『人の弱さ』についての記事のつづきである。

職場の後輩にM君という青年がいた。M君はわたしがこれまでに直接話したことのないタイプの人間であった。

M君は表面上ではごく普通の青年に見える。挨拶はできるし、特に業務を遂行する上でのやりとりに問題はない。ところが、話してみるといくつかのユニークな点に気付かされた。

本人曰く、「人とのコミュニケーションが苦手なんです。うまいこと面白い会話ができないというのでしょうか。言葉に詰まったり、誤解されることが多いんですよね」ということだった。

当初はそのような彼の自己分析とわたしの評価は良い意味で合致していなかった。つまり、彼がそこまで気にするような問題は見受けられなかったのだから、彼の気にし過ぎだと思ったのだ。

ところが、彼との会話を重ねていくうちに彼の言動については不可解な点がいくつか出てきた。

たとえば、彼から聞かされる近況についての説明は今ひとつ要領を得ない。

こちらから質問を重ねていかないと状況がよくわからないのだ。だが、彼は質問されない限り聞き手にとっては状況が不明瞭に思えて理解し難いということがわからないらしい。

その後、彼はできる限り説明するように努めたのだが今度は説明が長い割には状況がよくわからないということが起きた。

必要最低限の要点だけを話すことができていないまま、自己完結しているのだ。これでは会話のキャッチボールにならない。

また、彼からどんな本を読んだら良いかと聞かれてその都度、わたしのおすすめの本を紹介するのだが彼は一向に読んでくれない。その時は確かに興味を持ってくれているのだろうが、時間が経つと忘れてしまうらしい。それでいて読んだかどうか尋ねると、非常に申し訳なさそうにするのだが、それもまた時間が経つと忘れてしまうらしくて結局二年前に紹介した本を彼は未だに読んでいない。

もちろん、本なんて趣味のものだから人によって合う合わないという問題はあるのだが、そもそも人におすすめの本を聞いておいて冒頭を読むことさえしていないというのは少しがっかりである。だが、彼はそのことについて指摘されない限り私がどう思っていたのかは気づかない。

ほかにもM君から「どうやったら会話を楽しくすることができますか」と尋ねられたことがあった。わたしはまず、聞き上手になるように勧めた。多少オーバーでもリアクションを取り、適度に相槌を入れる。もし、わからないところがあったらおうむ返しをするのではなく、話自体は理解していることをアピールするためにも自分の感想も交えながら聞き返すという方法だ。本人もこの技法についてはとても得心がいったらしい。

その後、わたしが何気なく自分の趣味として空の雲の形や夕陽、ビルの隙間、崩れかかった家屋そういった風物を眺めると大変感動したり、どこか悲哀を覚えたり、さまざまな気持ちになる。それらを写真に撮るのが好きなのだと話をした。

ところが、M君のリアクションは虚ろである。目線は合わないし、薄笑いを浮かべている。話を理解してくれているのかどうか怪しい。理解してるかどうか聞いてみると、そのような気持ちになったことがないから分からないと言うのだった。

あとからわかったことだったが、人の話を聞いているときや映画なんかを見ている時に彼はその時点ではわかったつもりなのだが、時間が経過するとわかってなくて、わかったはずだったことをどうわかっていたのか説明できなくなっているのだ。つまり、わかったつもりになっているというだけ。

これでは、たしかに周りの人からしてみれば馬耳東風の感。虚しさと徒労感に襲われる。そしてうまく自身の考えを説明できないために、周りは彼の思考が読めず、時には彼の発言が矛盾しているようにも見えるし、無責任にも感じるし、互いを理解しあえたという実感が持てない。なので、要するに最初に彼がわたしに説明してくれた通り、誤解を受けることは多いだろうし、誰かと仲良くなることは甚だ難しいというわけだ。

ただ、彼は彼の置かれている状況について他人のせいではなく、全て自分のせいだと正しい認識をしていた。そしてまた、彼は改善したいという強い思いを持っていた。

わたしは、そのような困っている人を見て方って置けない。そして何より、彼はわたしのように話を聞いてくれる人を強く欲していた。

以来、わたしは仕事の合間も休日の朝も夜も彼とLINEをした。場合によっては数時間、通話をするとこともあったし、飲食店で食事をしながら話をすることもあった。

最初の頃、わたしには本当に彼の望んでいるような改善を手伝えるのか全く自信がなかった。それでも彼はわたしのことを人生の師匠という意味で、『師匠』と呼んで慕ってくれる。

わたしは最初、その呼び名はわたしからしてみると不適切だからやめるように頼んだのだが、彼は珍しくそこだけは頑として譲らなかった。

「いえ! 僕にとっての師匠で間違いありません!」

彼の情熱を燃料にして、私の「困った人を放っておけない」という理想がエンジンのように動きだした。

わたしはM君が諦めない限りは応援しようと思った。本人が変わりたいと本気で思っているのなら、せめて周りの人がそれを応援してあげてもよいはずだ。もちろん、自分が他のことで悩んでいて自分のことで手一杯ならやめた方がいいが、幸いわたしはそうではなかったというだけだ。

一年目。大きな変化はなかった。が、彼自身の行動に大きな変容があった。あれこれ考え込んで行動しないのではなく、まずは行動してみようという態度に変わり、実際に彼は職場でもSNS上でもプライベートでも様々な人と会話するようになった。

二年目。次第に彼には自信が宿ってきていた。最初は失敗するたびに極端に落ち込むことがあり、その都度わたしは「たしかにできるだけ物事は失敗しない方がよいが、完全に失敗を避けられないし、失敗した時にどうリカバリーするのかが大事だ」と説き続けた。

わたしが彼に強く訴えたのは、「世界は自分のものではないのだから、うまくいかなくても驚くに値しない。それは諦めではなくて現実を正しく受け止めるための謙虚さなのだ」という考え方である。

彼は、学生時代にいじめられた経験から自尊心や自信というものが希薄だった。それでいて、極度に失敗を恐れていた。そのため何か小さなことでも失敗すると過剰に自己嫌悪に陥り、自分自身を罵倒する癖があった。

これは周りから見ていると、道端で石ころに躓いて転んだ人が転がったまま自分のことを「このバカ!なんで転ぶんだ!これだから自分はダメなんだ!」と喚いているようなものだ。この形容だと滑稽に思われてしまうかもしれないが、実際のところ本人はいたって真剣に自己否定をしてしまう。

自己否定は、ある種の癖のようなものなのだろう。肯定する部分が見つけられないから否定することでようやく自己を認識して、ぐらぐらとした地面の上でも立つことができるのだろう。

その癖自体はもう彼の個性のようなもので止められないが、繰り返し失敗することでそれも今や、「当たり前のこと」として以前ほどには塞ぎ込むことがなくなった。

ただ、それでも課題は尽きない。

人とのコミュニケーションの種類は、相手の数だけ存在すると言っても良い。もともと、他人との会話について悩んだことのない人は偶然、恵まれていたか、無意識的に改善に成功してきたか、あるいはよほど鈍感だからだろう。

世の中にはどうしても、大勢の人が苦に思わないことでもうまくできずに負担を感じたり、苦労する人はいる。そうしたとき、そのことについて悩んだことのない人からすると時としてそのような悩みは馬鹿げているように目に映るだろう。

けれども、それは非常に身勝手な決めつけだと思う。

我々人間は、自己の能力のことで困っている人の肩代わりはしてあげられないが、その困っている人の話をよく聞き、同じような境遇だったら一人では解決できずに同じように困っていたのではないかと想像することは可能だ。

そして、想像できたならその人を否定したり、追い込んだりしない方法で、その人を励まし、時にはアドバイスをし、話を聞いてあげることくらいならできる。

もちろんこれも、『人の弱さ』にて書いたとおり自分に余裕がなければできないことだ。

そう考えてみると、世の中の人々がそれぞれに自己解決できないような悩みや不安が増大している状態、あるいは経済的に余裕がなく自分と社会に対して内省する余裕がないような状態というのは非常に危険な状況である。

誰しもが自分のことで手一杯になるだけではなく、それぞれが孤独化し、憲法と法律、制度で保障された社会システム以上の内面的な救済は希薄になっていく。

コロナ禍による影響についてはすでに多くの識者が卓越した論を奮っているので敢えてここでは深くは書かない。

M君は訳あって職を辞して、就職活動中であるが苦戦している。

そして今でも、対人コミュニケーションにおける失敗と、他人からの血のない言論攻撃を受けている。

恐らく、彼のような人間はこの世にたくさんいるのだろう。


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