[短編] 精神的に閉じ込められる話

 その時の僕はどうかしていたんだ。
 今思えばなぜ、あんなことをしたのか。

 事の発端は仕事の昼休みにコンビニでおにぎりでも買おうと思ってエレーベーターに一人で乗ったことだった。
 昼休みとは言っても少し訳があって、いわゆる世間の昼時からはかなり経過していた夕暮れのことだった。
 途中の階で止まることもなく、エレベーターは最上階から1階に向けて音もなく降りていく。このビルのエレベーターはなかなか高性能でちゃんと自動音声で行き先を教えてくれるのだが、まったく揺れもないので音声案内がない時は目を瞑ってると本当に動いているのか心配になる。
 が、僕はふとビルの3階にあるレストランでご飯を食べようと思い立った。
 見ると、エレベーターはまだ5階を通過したばかりだった。急いで、3階のボタンを押して、1階のボタンをダブルタッチして取り消した。何を隠そう、知る人もいるだろうがエレベーターによっては行き先ボタンをダブルタッチすると取り消す事のできる機種もあるのだ。
 ところがそこで妙なことが起こった。
 エレベーターは3階をそのまま通り過ぎ、現在の階層は「1階」と液晶モニタに表示されているが一向にドアが開かない。そもそも2階を通っただろうか? 開かないだけなら良いのだが、3階のボタンのランプが消えている。もう一度、3階のボタンを押してみるが反応がない。
 「開」ボタンを押してみるが開かない。「閉」ボタンを押してもどうにもならない。
あれ、これってやばくない?
 僕は内心焦り始めた。
 まさか、人生で初めてこの黄色い受話器のマークの緊急連絡ボタンを押す時が来たのだろうか、という微かな喜悦も生まれた。
 しかし、同時に僕の中で悪魔的発想が芽生えた。
 このまま、ここにいれば仕事をしなくて済むのではないか?
 何も生真面目にエレベーターから脱出する必要はないのではないのか?
 いっそのこと、このまま……。
 色々考えた挙句、やはり悪の道をひた走ることは僕にはできなかった。
 僕には小説という嘘なのか真実なのか判然としないものをもっともらしく書くことはできても、会社に嘘をついてまでエレベーターに閉じ込められ続けることはできない。ましてや、こうやってあれこれ考えている間にも僕の限られたランチ時間は過ぎ去っていくではないか。しかし、既にもう時間は経過している。ここでこうして過ごした時間は戻らない。
「エレベーターに閉じ込められたのでその分のお昼休憩を伸ばしてもらえないですか」
 そんな厚かましいお願いをすることなど、僕にはとてもできない。
 いや、厚かましくはないのか。不慮の事故で失ったものを取り戻そうとするのは当然の主張かもしれないが、今回のことに関してはわざわざそんな理由をつけて自分の品位を低下させるくらいなら黙って仕事に戻った方が楽ではないか。
「あいつはエレベーターに閉じ込められたことがあるんだぜ」という風聞が一人歩きして、どこでどんな風に面白い尾鰭が付くかわかったものじゃない。
 突然、エレベーターのドアが開いた。
 ドアを出てみると、3階のエントランスだった。
 どうやら、いつの間にか勝手に3階に向けてエレベーターは動き出していたらしい。
 呆気なく良くわからないまま脱出に成功した僕は、今一つ実感が持てないままラーメンを注文した。
 時計を見るとまだものの5分しか経過していなかった。
 僕は安堵して、ラーメンを食べた。
 閉じ込められるというのは実に嫌な気分になる。今回はまだ良かったが、知らない他人と何時間も閉じ込められたら、と思うとゾッとする。
 周りの見えない檻に閉じ込められるというのは中々の苦痛なのだ。
 そう考えると結果的に普段味わうことのない思いをしたのは良い体験をしたとも言える。
 と言っても同じ思いを繰り返したいかと言えばそれはまた別だ。
 以来、僕は調子に乗ってエレベーターでボタンの取り消しをすることはしなくなった。

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