[短編] 最後の夏休み

 夏の陽が暮れる頃。田んぼの中から蛙の鳴き声が聞こえてきた。泥の混じったような匂いの夜気が強くなってくる。
 祖父の家の縁側で夕涼みをしていると、高台にある神社の方から太鼓の音が聞こえてきた。
「始まったっぺ」
 居間で独酌していた祖父が愉快そうに言った。すでに夕飯を済ませてすっかりとできあがっている。
 祖母は数年前に他界し、それを機に周りの田畑を近隣の農業法人に買い取ってもらっていた。今では僅かばかりの庭で好きなように野菜を育てながら悠々と暮らしている。
 ボーン、ボーンと振り子時計から間の抜けたような鐘の音が六回鳴った。
 僕はその音があまり好きではなかった。
 子供の頃、両親に連れられた初めて祖父の家を訪れた時、まずはじめにこの不慣れな陰気な土地と、古めかしい日本家屋のせいで僕は絶対この家にはお化けが出る、と思い込んでいた。
 そのせいで、十畳ほどの居間にかけてある振り子時計が鐘を打つたびに心の臓から震え上がってしまった。
 しかし今、社会人になって初めて一人で祖父の家に来てみると、何故だかそうした怖かった思い出もどこかおかしく、愛おしく思われた。
 愛おしい——という言葉で我ながら、ずっと忘れていた出来事を思い出した。
 小学生の時、隣家には同じ年頃の少女がいた。彼女は田舎の子供らしく日焼けしていて、いつも快活そうな笑顔を浮かべていた。
 それは驚くほど邪気のない、純真な性質を持った子だった。嘘や卑怯、弱気者いじめは決して許さず、いつも誰かに気を配っていた。
 しかも、彼女はこの村を知り尽くしていて、ある意味では村のヌシだった。電気やゲーム機がなくたって、川や森、納屋や神社、ありとあらゆる場所が遊び場になることを教えてくれた。
 いつしか、その子に強く心を惹かれるようになるのはほとんど必然だった。
 けれども、小学校最後の夏休みを迎える前に彼女はどこか遠くの街へと引っ越してしまった。両親が離婚してしまい彼女は母方へと引き取られていったそうだ。
 僕は唖然とした。
 てっきり、毎年夏に彼女に会えるのは確約されているものだと思い違いをしていた自分にひどく腹が立った。
 どうして、自分の気持ちを伝えておかなかったのか。どうして、行き先を何も言わずに去ってしまったのか。どうして……。
 胸を切るような痛みを覚えた。この痛みには覚えがある。決して治らない傷の痛みに僕は耐えられなかったんだ。彼女のことを忘れていたんじゃなくて、僕はわざと思い出さないようにしていたのだ。
「ねえ、じいちゃん。隣の山口さんってまだいるのかな?」
「ああ、いるけんどもよ。たんだ、あっちゃも数年前に息子サ亡くなっでよ、離農したんだっちゃ。それからサすっかり落ち込んじまって、今じゃ滅多に人サ顔合わせんのよ」
 つくづく不運な一家だ。彼女は今頃、健在なのだろうか。どこかの街で僕のように会社員をやってるだろうか。それとも、もう誰かと結婚して幸せな生活を送っているだろうか。そうだといいけれど、そうであって欲しくもない気もする。
 いや、僕は何を考えているんだろう。
 今更、彼女に会う手立ても、連絡する手段も何も残っていないのに。
 悔しくて、何か歯の奥で砂を噛み続けるような嫌な感触に苛まれた。僕はじっとしていられなくなって、立ち上がった。
「爺ちゃん、ちょっと散歩がてら祭りに行ってくる」
「おお、せっかくだからそうしたらいい。帰りはまっぐらなるっちゃ」
 言いながら柱にかかっていた赤い小さめの懐中電灯を貸してくれた。
 僕はそれをポケットに入れるとサンダルを履いて表に出た。
 めったに車なんて通ることのない農道には、僕の長い影が伸びている。
 十年くらい前にはこの影ももう少し短かった気がする。
 左右には田んぼが広がり、まだ緑のイネが茜色の夕陽を受けて音もなく揺れていた。
 道なりに行くとやがて小さな高台の麓にやって来た。石段の両脇には色とりどりの提灯がぶら下がっている。僕はその儚い美しさに思わず見れて立ち止まった。
「まってよ、おにいちゃん!」
 あどけない笑い声が脇を通り過ぎた。兄妹なのか、浴衣姿の男の子と少女が階段を駆け上がっていった。うしろから、母親らしい若い女性が「転ぶんじゃないわよ」と追いかけて行った。
 僕は何か狂おしい気持ちになりながら、石段の先に見える夜の帳へ向かって足を動かした。
 次第に太鼓の音が近くなり胃に響くような具合だ。綿飴やら、焼きそばといった祭り特有の匂いが夜気に紛れて鼻を打つ。
 小さな村の小さな神社の境内に小さな櫓が組まれて、その周りに僅かばかりの出店が並んでいた。
 櫓の上では鉢巻きを巻いて青い法被を着た青年が太鼓を叩いていた。
 何故だか、自分がひどく場違いな場所に来てしまったのだという感覚が湧いた。
 子供の頃に毎年やってきたこのコンパクトなお祭りは僕のような都会の成人が楽しむようなものではなかった。懐かしいと言うよりかは、何かチープな印象を抱いてしまった自分の変化にゾッとした。
 もう、僕の居場所はここにはないのかもしれない。
 果たして祖父もあと何年生きられるのかわからない。
 今はまだ頭はハッキリしているが、明らかに腕が痩せ細り、農作業をしていた頃の筋骨はすでに衰えていた。
 何故、僕が一人で祖父の元を訪れたのかといえばそもそも、祖父に会える時間もそう長くはないだろうとうっすらと思っていたからだった。
 もちろんそんなことは誰にも言っていないが、誰にも言わなくても、誰かが言わなくても、避けようのない未来であって、おそらくはそう遠くはない。
 いずれ、僕のあの頃の夏休みの同じように、二度と戻らぬ人になるのだろう。
 踵を返して、ささやかな喧騒を背にした。
 まだ、夕日は山際に居残っていて懐中電灯は要らなかった。
 僕は意味もなく、ただ、必要に駆られて全力で疾走した。
「早かったなぁ。都会っ子にはつまらんかったか」
 玄関の引き戸を開けると、音を聞きつけて出迎えてくれた祖父は冗談めかしてそう言った。が、端的に言ってしまえば結局はそう言うことなのだということを僕は理解した。
「一緒に酒サ飲むっぺ」
 僕は頷き、居間で祖父と二人で晩酌を交わした。
 祖父は「ようやく、この時が来たか」と大層喜んだ。「孫と酒が飲めるなんて、オラは幸せものだっぺ」
「大袈裟だなぁ」
「お前もいずれ、子をもち、孫をもてばわるっぺ」
「そういうものかな」
「そうそう、子供と言えば、お前の父さんサ子供の時、川に落っこちたんよ」
 それから祖父は愉快そうに思い出話をしていたが、それらは毎年聞かされてきたものとまったく同じ内容だった。けれども僕にはそれが不快ではなく、話を聞いているとあたかも自分も祖父や父と同じ時代に生きていたような気分になった。それはとても温かく、安心する気持ちだった。
 一通り話し終え、時計の鐘が八つなった時、僕はふと思い立った。
「ねえ、おじいちゃん。なんかしてほしいことない?」
「おお? 急にどうしたんだっぺか」と祖父は少し驚いたようだったが不意に何もかも承知したように、そうさなぁと腕を組んで思案してくれた。
「——んま、オラはもういい歳だっぺ。なんもサ欲しいものなんかないけんど、もう一度家族みんなで温泉でも行けたら幸せだっぺなァ」
 僕は何だか泣きそうな気持ちになりながら、ぐっと堪えて約束した。
「うん、来年の夏はみんなで温泉に行こう」
 過去を悔やんでいるだけでは何も変わらない。
 悔やんだのなら、目の前のことを大切にしないといけない。同じことを繰り返さないために。
 瓶を傾けて祖父のグラスに酒を注ぐと、祖父はカラカラと笑った。
「また一つ楽しみが増えたっぺ」
 僕は頷いて、今までずっと言えなかったことを口にした。
「うん、長生きしてね」
「そうするっぺ」
 二つのグラスがチリンと音を立てた。遠くからは太鼓の音が鳴り続けていた。
 夏はまだ終わっていない。

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