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[雑記]勉強と人生について

なぜ、勉強をする必要があるのか。

子供にそう聞かれた時のためにも、あらためてこの問いについて考えてみた。

勉強は嫌いだという人や、勉強という言葉自体に抵抗を感じる人もいる。逆に、勉強が好きだという人もいる。

私は子供の頃、勉強は嫌いだった。理由は簡単だ。他にやりたいことや楽しいことがあったからだ。

何をしていたかといえば、友達と遊んだり、自転車で遠出したり、熱心に紙飛行機を大量に生産して飛行能力を研究したり、雪山に横穴を掘りまくって巣穴のようなかまくらを作ってみたり、庭ですごい深い穴を掘ろうと汗水流したけど硬い地盤に行き当たって子供の力では深さ40cmくらいが限界だと知ったり、テレビゲームをしたり、気に入った映画を何回も観たり、本を読み漁ったり……。

学生になってからは小説を書いたり、イラストを描いたり、動画を制作したりしていた。

ちなみに執筆した小説を出版社のコンクールに送ったこともあったが、営業の電話が来ただけで賞を取れなかった。

大人になって定職に就いてからは自分がきちんと勉強をしてこなかったことについて、いくつか考えさせられることがあった。

自分は幸いにも環境と友人に恵まれた。読書は好きだったおかげでそこそこのボキャブラリーを持ち、文章を書くのも苦にならないからまだよかったが、もしそうした長所すらなかったとしたら、自分は恐らくは非常に惨めで辛い人生を歩んでいたと思う。

それでもやはり、もう少し勉強をしていたら良かったのだろうかと思わないでもなかった。

まず、第一に私の場合においてはとにかく数学が苦手だった。原因の一つには、運悪く定員割れのせいで私の住む地域でかなり上位の進学校に入学してしまったからだ。

そこでは、当たり前なのだがみんな勉強することを苦に感じておらず、勉強もスポーツも切磋琢磨して生き生きとしていた。

当然、授業のレベルも高くてテンポが早い。とてもではないが内容についていけない。要するには私は高校では落ちこぼれだった。

定期試験の後には全校生徒のうち上位者の成績が職員室前の廊下に貼り出されていた。

しかし今考えてみると不思議といえば不思議なのだが、私はろくに勉強もしてなかった割に何故か最下位ではなかった。学年360人のうち悪くても320位、良い時では200位後半にいた記憶がある。

そのため、学年の順位はおかしなことに私の自尊心を痛めつけなかった。勉強してなくても最下位にはならないのだという変な自負が生まれた。

浅はかなものである。順位なんて本当はどうでもよくて、きちんと勉学に励んで全科目で8割以上採れるのが優秀というものであり、たとえ一位になれなくたってそうした勉学に対する姿勢や物の考え方は大人になってからも役に立っただろう。

一部の人は、学歴は高いもののコミュニケーション能力が低い人を揶揄して、「あいつは勉強はできても人間がダメだ」といった物言いをすることがある。

こうした物言いにはいろんな背景があるからどういった意図なのかなどはここでは限定しないが、しかし、少なくともそうした誹りを受ける人たちはきちんと勉強してきたということは賞賛に値する。

ただ、同時に結局のところ人には得手不得手があるのだろうということもまた痛感する。

人々の学業と職業が文系理系に分けられるのもそういうことであるし、肉体が頑健だから肉体労働に向いてる人もいるし、頭脳労働が得意だからオフィスで働く人もいる。

もし仮にみながみな、勉強が得意で向上心を持って生きていた場合、社会はある意味では競争の連鎖となり、非常に生きにくくなっていたようにも思う。

人にはどうしても差異があって、他人のできることが自分にはできなかったり、自分にできることが他人には難しいこともある。

勉学はできる限りそうした溝を埋めてはくれるが、人の思考や価値観こそ差異までは埋まらない。

勉強ができるからといって必ずしも幸福になるわけでもない。

とはいえ、勉強を全くしない場合は幸福になれる可能性がかなり低くなるのは事実だ。

まず、勉強しなかった場合はどうしたって職業選択の幅が狭まる。

職業によっては最初から、特定の学位や大学での学習を必須としているものや、特に国家資格のようなものは特定の大学できちんと学を修めなければ資格すら取れないので、その道に進むことすらできなくなる。

反対に、そのような資格をとった場合はそのような道にしか進めなくなるような心理的圧迫を受けることにもなるのだが、それが自身の夢ならば喜ばしいことだろう。

話は少し逸れたが、他に勉強をしないことで発生するリスクとして、社会人になってからも結局のところは毎日が勉強のようなところがあるので、勉強に対する姿勢を養っておかないことは単純に生きる上で苦労するというものがある。

極端な話、漢字が読めないことや、簡単な数式の作成や解法がわからないこと、簡単な英語が理解できないことは、それだけで現代社会では苦労することになる。

きっと、この先ますます英語は必須になってくるし、プログラミング言語についての理解もないとそのうち苦労する時代がやってくるかもしれない。

ただ、そうした何か新しいことを学ぶということは、やたら記憶力がいいならまだしも、がむしゃらになんでも吸収するというのは無理がある。

勉強ないしは学習というものにはある種の法則のようなものがある。そしてそれは、どうやら各自によって自分に合ったやり方というのが違うらしい。

とは言え、おおまかな流れは一緒だ。

まず最初は、記憶すること。

記憶すると一概に言っても、これはいくつかの種類がある。

たとえば、小説を読んだ後、その本の概要は読み直さなくても他人に話して伝えることができる。

これは暗記しているのではなく、ストーリーを理解してるからできることである。

数学の場合、公式という便利なものがある。公式は、学者さんたちが色々考えて生み出してくれた便利なものだ。全人類がゼロから数式を解き明かさなくても済むようにしてくれた。だから、公式は覚えてしまった方が早い。

あるいは、公式がなぜそのような姿になっているのかを気にすることもできる。

根本的な数学の理解を深めることで、公式を覚えやすくなるかもしれないし、時間をかけた結果あまり意味がなくて公式さえ覚えてればいいやってこともある。

面白いことには、数学のできる人とスポーツのできる人の考え方には類似性があることだ。

数学の得意な生徒は言う。数学は暗記と反復だと。つまりは、公式を覚えてしまい、ひたすらあとはいろいろな問題を解くことだと。そうすればどうしたって公式は忘れなくなるし、少し毛色の違う応用問題が出題されても今まで解いてきた問題の言わばビッグデータをもとに自分で解法を網出せるわけだ。

スポーツ選手も同様である。たとえば野球で言えば、まずは鏡やカメラを使って基本の正しいバッティングフォームを体に覚え込ませ、そのあとはそのフォームをひたすら反復する。そうすれば自然と正しいバッティングフォームが身につき、やがては自分で自分の体を正確に支配できるようになり、実践と試合経験を積むことで相手バッテリーの心理を読んだり、さらなる応用ができるようになるわけだ。

このような例からもわかるとおり、何かを学ぶということは記憶と反復を基礎とする。

ただ、暗記するのと、理解して覚えるのとでは訳が違う。

まず、暗記すべきことなのか、理解して覚えなければ先に進めないことなのかを見分けることが大事だ。

そしてもっと言えば、矛盾するようだが最初はその違いが分からなくてもいいし、その分別について考える必要はあまりない。

勉強がうまくできなくなってから考えても良いことだ。

とは言え、勉強が楽しくない場合、暗記も何もイマイチ気が乗らないし、ついつい余計なことを考えて気もそぞろになりがちだ。

この日本においては勉強する意味や意欲というものは当人の中からしか湧いてこないものである。他人から押し付けられるものではない。

ただ、他人の言動が勉強する意味や意欲を湧き立たせるきっかけにはなる。

よくある話として、子供の頃に入院した時に看護師さんによくしてもらったから自分も看護師さんになりたいという憧れでも良い。

そこまでの美談ではなくても、将来はお金に困らず、好きなものを買って好きなものを食べて普通に生きたいと願うのなら、まず現在の平均年収を調べて、その年収に合致する職業で、なおかつ近々にAIに奪われない仕事を探し、その仕事に就くために必要な学位や資格を調べれば良い。そうすれば自ずから、それなりに勉強しなければ普通の生活は送れないことがわかるだろう。

ただ、勘違いしてほしくないのは、実はそこまで気を張り詰めなくても人生はなんとかなるということもある。

人生にとって一番大切なことは何か。

それは、楽しむことである。

もちろん、生きていればそれなりに苦労したり、思いがけず辛い目にあったりもするだろう。

しかし、それは本当に嫌なことだろうか。あまりできない体験をしたのではないか、誰かと会話する時の話のタネができたのではないだろうか、自分の人生をよりよく生きるためのヒントを得なかっただろうか。

どんな成功も失敗も、日々の何気ない会話や景色も、それに意味をつけるかつけないかは当人次第だ。

特に失敗については、その失敗した時の感情が辛すぎれば辛いほどそれを考えるための力にしてほしいし、その辛い気持ちで感情が波立って思考できないのであれば、その失敗をコーヒーのようなものだと思えば良い。

頭の中で失敗をローストし、ミルで粉末にしてフィルターに入れる。できるだけ手触りのいい好きな色のカップにフィルターを載せたら、ゆっくりとお湯をかけてそこから美味しい部分だけをドリップする。

「そうだ。あの時、ああしてればもっとうまくいったのか。」、「あの時、こういう言い方をしてれば相手も喜んでくれたかな。」といった発見がある。

自分を責めるよりも、どうしたらうまくいったのか想像してほくそ笑むことができればいい。

失敗して成長した人は、精神的な強靭さを持ち、他人の失敗にも寛容を持ち、人の成長を支え、見守ることのできる人になれる。

そうしたことに喜びを見出せれば、つまるところ失敗を恐る必要はないと気づくし、他人の失敗に怒りを覚えることもなくなる。

恐れ、怒り、不安そうしたものを自然と遠ざけ、誰かからの評価のためではなく、自分自身の人生を謳歌し、他人の人生をそっと見守り、時には後押ししてあげれる——そんな生き方ができれば十分に幸せだと思うよ。


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