
高野連の改革アレルギー
◉戦前の日本の、悪しき精神主義や全体主義を、もっとも保持している組織が高野連です。これは前々から指摘し続けていますが、今年も相変わらずのようですね。極端な話、高校球児に熱中症での死者でも出ないと、改革なんかできないでしょうね。その点では、終戦の御聖断を下す昭和天皇がいただけ、戦前の日本のほうがまだマシだった部分さえあります。本当は、朝日新聞と毎日新聞が一言言えば、簡単に変わるはずなんですが……。
【夏の甲子園で選手の熱中症多発 猛暑問題放置は「高野連の改革アレルギー」と識者バッサリ】日刊ゲンダイ
テレビに表示された熱中症警戒情報。その文字の中、炎天下の甲子園で白球を追いかける高校球児が映し出されている。
開催中の全国高校野球大会で、序盤から酷暑によるアクシデントが続出。大会2日目の7日には3選手が担架で搬送され、翌8日にも3選手が足をつったり動けなくなる症状を訴えた。
ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、甲子園球場の写真です。
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■児童虐待の高野連と朝毎■
球数制限も、アメリカや韓国のような厳密なものは未だに導入されず。かのスポーツ医学の世界的権威のフランク・ジョーブ博士も、荒木大輔投手や桑田真澄投手など、幾多の日本人投手の肘を見て、甲子園大会での過酷な投球で肘が曲がってるじゃないかと、怒っておられたとか。高野連と朝日新聞・毎日新聞がやってることは、立派な児童虐待です。日頃は「子供の人権が~」と、すぐ裁判や国連に訴える人たちも、この件はスルーしますが。
佐々木朗希投手の今年の活躍を見るに、もしあのとき監督が腹を括って、どんなに批判されても彼の未来を守ると決断しなければ、彼の未来は潰されていたわけで。テレビの前で娯楽として消費する無責任な人間の声なんて、本来は朝日新聞や毎日新聞が率先してたしなめるべきです。自分などは「甲子園大会は私立高校の、しかも結構な割合で宗教系の高校の宣伝の場になってるんですから、今さら建前や綺麗事を言うなよ」と思います。
■地域ナショナリズムと野球■
批判だけしていてもしょうがないので、文化的な話を少しばかり。甲子園大会というのは、各都道府県の代表が集う場所です。そもそも、野球というスポーツは相撲に似てるんですよね。というか、野球・バスケットボール・アメリカンフットボール・ホッケーのアメリカの四題スポーツって、インプレーになったら一気呵成に動き、割りとタイムやらアウトオブプレーの境界が曖昧。相撲の仕切りと軍配が返ってからの感じに、似てるでしょ? 日本で動き続ける狩猟民的なサッカーが、なかなか定着しなかった理由です。
これらに、バレーボールを加えてもいいですが。とにかく、日本人的な間の取れる競技で、しかも囲碁や将棋のように戦略論がとても大事という点で、日本人にはとても相性がいい。で、相撲も出羽海とか栃木山とか、強度の山河海にちなんだ名前を付けて、ある種の強度対抗戦の側面があるんですよね。鹿児島だと、若島津とか霧島とか薩洲洋とか、やっぱり強度をもい出させる四股名で、そこに地域ナショナリズムが絡むので、燃えるんですよね。
■甲子園大会は近代の神事■
そういう、地域ナショナリズムが絡むので、それはスポーツというより、神事に近くなるわけです。日本人はどうしても、娯楽としてのスポーツに馴染みがなくて、武道や宗教の修行のような精神性を付加し、それをなにか高尚なもののようにみなす、悪しき文化があるのですが。高校野球もそういう部分を背負うので、必然的に「お国のために死ぬのは当たり前」の戦前の価値観と、とても親和性が高いんですね。いくら戦前を否定しても、この心情は日本人に無意識に継承されてるわけで。
つまり、地域の代表として地域ナショナリズムが絡む試合に出る。なら、肘が痛いだの将来はプロ野球で稼ぎたいなど、私事にすぎないと。公事である大会のためなら、選手生命ぐらいなんだ、昔の人はお国のために命を捧げていたぞ、と。だから、佐々木朗希投手の登板を回避した監督は、叩かれたわけです。でも、そういう人に「特攻で死ぬのは当然ですか?」と聞けば、よほどの国粋主義者でもない限りは、「強制は良くない」と言うでしょう。自分は強制しようとしてることに、無自覚なまま。
■神事では生贄は当然のこと■
さて、神事について。そもそも、お祭りとかの神事は、何故あるのか? どうも人類というのは、ハレの日とケの日の感覚というのを共通に持っていて、祭りというハレの日では日常ではタブーになっていることが、許される。食い物を貪ったりムダにしてはいけないと言われるのが、祭りのときは盛大に蕩尽する。あるいは、セックスのタブーも解禁され、乱交が許される。現代でも、リオのカーニバル直後は、妊娠率が高まりますし、青森のねぶたでも(以下略)。
そして、殺人という最大のタブーも、非日常では許される。というか、それをやることで、非日常であることを強く意識する。アステカ王国では、行きたまま心臓を捧げる儀式が行われ。日本でも、諏訪の御柱祭や河内のだんじり祭で、たまに死者が出ます。これは、神事による死者は神への捧げ物と、日本人は無意識に了解しているので。諏訪の御柱祭とか、古い記録を見ると多くの供物と生贄が捧げられています。
これは聖書を読んでも、アブラハムが息子を神に生贄として捧げようとしたイサクの燔祭(はんさい)や、カインとアベルの兄弟殺しの物語で、見ることができます。狩猟民は獲物の一部を神に捧げてお返しするのですが、農耕民や湯牧民は収穫物や牧畜だけでなく、人間を捧げようとします。そうう部分を踏まえた上でなお、高校野球の選手を娯楽のための供物にしてはいけないと、自分は言いたいです。いい加減、分散開催やナイター開催を決断すべき時期。
どっとはらい( ´ ▽ ` )ノ
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