応神天皇陵と赤馬伝説
◉応神天皇の赤馬伝説───赤い駿馬が埴輪に姿を変えたという伝承ですが、何かと示唆的ですね。戦後、東洋史学者の江上波夫博士の騎馬民族征服王朝説なんてありました。確かに、『魏志倭人伝』には邪馬台国に牛馬はいないと記されているのに、ある時期から急激に馬具や馬の骨が出てきますから。また、生贄として動物や人間を捧げていたものが、身代わりに埴輪を創るようになったという伝承が、あります。相撲の開祖とされる野見宿禰が、殉死の風習に代えて埴輪を案出し、土師臣の姓を与えられた、とかの伝承とも重なってきそうですが。
ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、ステキな水彩イラストがヒットしました。
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■神話軽視の戦後歴史学■
日本は敗戦の反動から、戦前の皇国史観から極端な科学思考に走って、神話や伝承を作り話として切り捨てる方向に動きましたが。実際は、そういう伝承は何らかのモデルがあるんですよね。邪馬台国九州説と畿内説が激しく対立するのも、九州説だと神武東征神話に何らかの根拠があることになるので、マスコミは畿内説で確定のようなことを書きます。昔からリベラルな京大史学閥が畿内説を強く押し、また朝日新聞や毎日新聞は元々、関西の新聞社ですからね。お国自慢も混じってるのかも知れませんが。でもそれもまたイデオロギーに囚われていて、科学的な態度とはいえません。
魏志倭人伝に登場する地名は、ほとんどが九州のものですし。そもそも、天孫降臨神話がある宮崎県にしろ、大和王権の誕生した畿内にしろ、九州の地名を移植したとしか思えない地名が、多数見つかっていますからね。差はマスコミが盛んに卑弥呼の墓と喧伝する纒向遺跡の箸墓古墳は、同時に出土した布留Ⅰ式土器により4世紀初頭頃のものとされ、卑弥呼の没年西暦247年とはずれています。学者によって卑弥呼の没年と1世紀も造成時期の推定がずれていますし、無理があります。最古級の前方後円墳で、かなり重要な人物の陵墓なのは確かですが、卑弥呼の墓は円墳の可能性が高いですから。
■神武・崇神・応神・天武■
応神天皇陵古墳───地名から誉田御廟山古墳とも呼ばれますが。墳丘長約425メートルで、墳丘長525メートルの大仙古墳に次ぐ大きさです。初代天皇の神武天皇は話節号が始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)で、10代天皇の崇神も所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)で、両者は同一人物という説もあります。いわゆる架上説、天皇家の歴史を古く見せるために、より古い時代に投影したという説です。で、15代の応神天皇もまた、神武天皇のモデルという説があります。岡田英弘先生は、神武東征神話は日本書紀が書かれた時代の天武天皇の事績を投影していると指摘されています。
してみると、神武・崇神・応神・天武天皇は、ひとつの天皇の可能性が。みんな、神か武の字がついていますしね。そうなると、最大の天皇陵が仁徳天皇陵ってのは、ちょっと不思議ですよね。始皇帝陵やクフ王のピラミッドと一緒で、全盛期の王が巨大陵墓は造るもの。仁徳天皇は名前は立派ですが、息子の仁徳天皇が父親より大きな御陵を造影するのか? ただ、自分はこの大仙古墳が仁徳天皇陵という伝承には、仁徳天皇・反正天皇・履中天皇の3陵で混乱があると思っていますが。いずれにしろ、東征神話の原型となった、九州からの王朝の移動はあったのは、事実でしょう。
■華僑と土着民が作った倭国■
日本は、土着民と華僑が作った国。これは、岡田英弘先生の受売りですが。後漢王朝末の黄巾の乱で、人口が3分の1とも10分の1とも言われる激減をして、隋による統一まで、内乱に明け暮れていたわけで。結果、周辺諸国への影響力が著しく減退。遣唐使を辞めて国風文化が栄えたように、中国が混乱してるので文化的な交流が減り、逆に大陸から逃げてくる人も多く。そうやってきた華僑と、地元の土着民が交わって、ある種の雪中文化が生まれたわけです。これは、半島も日本もベトナムも同じ。急に馬具が増えるのも、別に騎馬民族がやってきたわけではなく。
そもそも、日本は7000年前には翡翠の流通ルートがあり、6000年ぐらい前には長江化流域から稲作も伝わっていますし。4000年ぐらい前にはポリネシア系の人たちも北上。大陸との交流はずっとあり、しかもルートも半島に限られてはいないんですが。この華僑の部分を、半島と言い換えたい学者やマスコミがいますが。現実問題、統一新羅も実質、慶尚道の土着民と華僑が作った国ですから。現在的な意味で、民族意識や国家意識は、3世紀ぐらいにようやく生まれたものですしね。そういう痕跡を追って、歴史のパズルを解くのは楽しいですが。イデオロギーが入ると、途端につまらなくなりますね。
どっとはらい( ´ ▽ ` )ノ