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芸術の政治利用をプロパガンダと呼ぶ

あいちトリエンナーレ『表現の不自由展・その後』についての、4000字ちょっとの考察です。ほぼ半分は無料で読めますし、イロイロと思ったことを、とりとめもなく書きました。


■道理と情■

芸術の定義は難しいし、多様ですが、江戸時代の儒学者・荻生徂徠は、政治はロジック(道理)が大事だが、人間の心を動かすにはエモーション(情)を伝えることが大事という意味のことを書いています。だから、四書五経(論語・大学・中庸・孟子と易経・書経・詩経・礼記・春秋)に詩経という、詩文を集めた書が含まれる理由を説きます。五経にさらに楽経という音楽の書を加えて四書六経ということもありますが。

詩と音楽、つまりは芸術のことですね。また、孔子が重視した礼楽とは、礼儀作法や楽器の演奏という意味を超え、文化の厚みによる統治である……という考えを、呉智英夫子は以費塾の講義で示されていました。法治主義に対する徳治主義とは、ロジックと法令(罪と罰)による統治ではなく、人間の品格を高めて慎み深さによって統治するという、理想主義でもあります。

人間は、感情の生き物である。純粋なロジックの応酬では動かない心も、詩文や音楽によって動かされることがあります。孔子自体が楽器の演奏に感動し、三日も美味しい肉料理を食べても味がわからないほど夢うつつですから。さらに例を挙げるなら、1995年の東京都知事選で各種の具体的な政策を掲げた大前研一氏は、青島幸男氏に敗れます。青島候補に具体的な政策はほとんどなく、都市博の中止ぐらい。ただ「都政から隠し事をなくします」と繰り返し語った。

■芸術の政治利用の実例■

さすが、放送作家としての数々の実績に加えて、直木賞作家でもあり、作詞家としても『スーダラ節』や『明日があるさ』など数々のヒット曲を持ち、絵画でも二科展に入選する、一廉の芸術家でもあった人物です。まさに東京都民の情を動かして、都知事になってしまった。ここらへん、築地市場の豊洲移転にイチャモンをつけただけの小池百合子都知事の手法も似ていますね。

というか、王安石の新法に反対した大学者の司馬光の昔から昭和の時代の社会党まで、何でも反対・でも代案なしは、知識人の常道です。さて敗れた大前研一氏、傷心のままドライブをしていると、カーラジオからテレサ・テンの『つぐない』が流れてきて、にわかに悟るところがあったそうです。


「愛を償えば別れになるけれど」はロジックとしてはおかしい。なんで愛を償うことが別離に帰結するのか、確かにおかしい。だが、人の心は動かされる、俺にはこれが足りなかった……と。青島幸男氏が芸術的なキャッチフレーズによって、都知事の座を掴んだように、芸術はその影響力の強さ故に、政治に利用され、あるいは恐れられて政治によって禁じられもしました。

王侯諸将が芸術家のパトロンであったように、芸術と政治は昔から近い部分があります。自由を弾圧し、国民を餓死に追い込んだ独裁者でも、優れた芸術家が銅像を造ると、慈愛と威厳に満ちた指導者様に見える不思議。それが見上げるように巨大な銅像なら、なおさらです。国民が飢えてガリガリでも、醜く肥え太った親子には見えないでしょ?

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■ナチスの芸術利用■

ナチスはそのような芸術の力を知っていたが故に、党のマークにしろ服装にしろ、美的センスの良いものを意図的に採用しました。軍服に至っては、機能性より見た目のカッコよさを優先。ここらへん、一度は画家を志し、そこそこ技術はあったヒトラーの、芸術センスが生きたのかもしれません。

結果的に、現在でもナチスの軍服や紋章、アイテムなどのデザインや意匠は強い記号性を有し、人々を魅了しています。映画『愛の嵐』のポスターなど、ナチスの衣服とエロスの融合ですらある。ナチスは視覚的な格好良さだけではなく、ワーグナーの音楽も巧みに利用し大衆の耳も支配しました。

その結果、イスラエルでは未だにワーグナーの楽曲演奏は一種のタブーとなっています。数年前にイスラエルの指揮者が、ドイツでワーグナーを振ることになったときにも、強く批判されましたし、昨年もイスラエルのラジオ局がワーグナーを流して謝罪する事態に。こういうのは、表現の不自由に含まれないのか? どうした津田大介芸術監督。残念ながら、ホロコーストという被害者カードの前では、世界中の知識人も口をつぐむようで。

政治的主張を、情を動かす力のある芸術に抱き合わせて発信するのは、一歩間違うとロジックを情でネジ伏せることと同義。暴力を使った恐怖政治よりはマシですが、無理が通って道理が引っ込むのは同じ。程度の問題でしかない。芸術とは俗世と掛け離れた処に存在する高尚な何かではなく、そこら中にありふれて、世俗と共存しています。ホリエモンや西村博之氏にはピンとこないかもしれないですが、本物の独裁者やしたたかで鋭敏な政治家は、その効力を正しく認識しています。

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■政策より見た目が大事……でいいのか?■

メディアでよく引き合いに出される、ケネディとニクソンの大統領選でのテレビ討論。若く二枚目で、明るい色の背広を着てテレビ映えを計算したケネディに対し、当日は体調が悪く顔色も悪く、色合いが良くない背広のニクソン。結果的に、このテレビ討論で前評判を覆され、ニクソンはケネディに敗れたとされます。

この逆転劇のトラウマが、後にウォーターゲート事件の遠因になったという指摘さえあります。しかし、ラジオでこの討論を聞いていた有権者は、ニクソンの勝ちだと思ったとか。つまり、ビジュアルに左右されない、言葉(ロゴス)による戦いでは、ケネディよりもニクソンのほうが有利だったわけです。つまり、このエピソードを嬉々として語る人は、政策の中身より大衆の情に訴え煽動するほうが大事と言ってるに等しいのです。

それがポピュリズムの事実であっても、チョット待てと警鐘を鳴らすのが、知識人やマスコミュニケーションに関わる人間の、役割ではないでしょうか? ちなみに、法家の韓非子の著書を読んで感動した秦国の王は、実際の韓非子に会うと小男で風采が上がらず、しかも吃音だったのでガッカリしたというエピソードがある。

秦王政、後の始皇帝。韓非は、その才を妬んだ兄弟弟子の讒言で獄に繋がれ、自殺に追い込まれたと、司馬遷の史記は記述しています。2000年以上前から、人は見た目で人物を判断するようで。もちろん、自分も他人を見た目で判断します。仕方ないことですが、怖いことでもある自覚はありますが……。

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■芸術に対する理解も知識も覚悟もなかった津田大介芸術監督■

物議を醸した、あいちトリエンナーレ『表現の不自由展・その後』に話を戻しましょうか。芸術を政治に利用することが、どこまで許されるか、その基準はないです。選挙のポスターにも、腕の良いカメラマンを使えば差が出ます。その程度には、芸術はそこら中にありふれていて、政治利用される。しかし、芸術を利用して自分の政治的主張を無理矢理・あるいは気づかれないように真綿にくるんででも、押し通そうとするのがプロパガンダなら、この催しは間違いなくプロパガンダ。

プロパガンダと芸術は併存する。むしろ相性がいいですから。「あれが芸術か?」という人もいるでしょうが、あれも一種の芸術ではあります。ただし、芸術としてはかなりお粗末な部類だと、自分は思う。それは、同点に出展した造形作家からも、バッサリ切り捨てられるほどには。

「なんで一緒にいなきゃいけないのと。あれは工芸と一緒で"用の美"、使用するための美だ。僕たちはファインアート(純粋芸術)で、なんの意味もなく作っている」と、出展した現代芸術家からも批判されているのを、津田大介芸術監督は受け止めるべきではないかと。芸術の勉強もしてないから、わからんでしょうけど。

そもそも慰安婦像のオリジナルは、国際条約で禁じられている大使館への安寧を無視し、日本大使館の前の公道に勝手に設置され、毎週水曜日に集会が開かれ、何十年も続けられているという、極めて政治性が高い存在。上着やマフラーやニット帽を被せられる像の芸術性が、どう高いのか、津田大介芸術監督は説明が必要。そういえば、渋谷駅構内に設置された岡本太郎の壁画『明日の神話』に絵を付け足した愚か者がいましたっけ。

■表現の自由には表現の責任が伴うという前提■

芸術としてのお粗末さを指摘されたとき、慰安婦像に残ったのは政治的な主張が意義のほとんどだった───という現実を露わにした点で、津田芸術監督の果たした役割は大きいです。悪い意味で。「いやこれが慰安婦像の芸術性だ!」と、芸術的観点から擁護している人間は、残念ながら見かけなかったでう。もしも「この意見がそれに該当するぞ!」という人は、ぜひコメント欄で知らせてほしいです。

あるいは、シャルリー・エブド紙の物議を醸した風刺画を、表現の不自由展に置くぐらいの覚悟が津田芸術監督にあったのなら、少なくとも自分はその覚悟に敬意を払う。党派性に囚われない、一本筋の通った政治的主張と認めるのも、吝かではない。
 もちろん、その場合はイスラム過激派によるテロや、津田氏個人への報復もありうるだろう。表現の自由には、責任が伴うし、覚悟も伴う。暴力反対とは別に、表現の自由にはそういう現実と覚悟が必要。

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