日本シナリオ作家協会の悪手
◉日本シナリオ作家協会の動画が物議を醸し、削除される事態に。芦原妃名子先生が亡くなった1月29日に、動画をアップする協会の、感覚がそもそもおかしいです。特に、黒沢久子会長の発言が、酷いようです。削除されてしまったので、確認することはできませんが「私が対峙するのは原作であって原作者の方はあまり関係ないかな」が事実だとしたら、これが脚本家の本音だと、会長と協会が認めたと、受け取られかねないですね。
ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、メイプル楓さんのイラストです。
◉…▲▼▲▽△▽▲▼▲▽△▽▲▼▲…◉
■問題を矮小化するマスコミ■
この動画の内容、文字起こしして拡散したアカウントに、事実と違う部分があり、その発言をしたとされる伴一彦氏が困惑されている状況です。動画を見た人の感想として、伴一彦氏の東野圭吾先生へのあんなやつ云々の発言はなかったこと、黒澤久子協会長の発言に対して、引きずられず反対意見を述べておられたとのこと。これも削除されてしまったので、自分には確認しようがありませんが。
伴氏が指摘されるように、削除は最悪の対応だったと思います。そもそもあげるな、というのはありますが。ただ、マスコミはこの間違いの部分を強調して、問題を矮小化していないかという気はいたします。売名YouTuberの妨害行為を、まるで暇空茜氏が妨害してるかのような曖昧な表現で報じる左派マスコミの態度と通じるような気がします。ちなみにスポニチは、毎日新聞系のスポーツ新聞です。
繰り返しますが、動画が削除されたので確認はできません。
■シナリオ業界の自浄作用■
この件に関して『東京トイボックス』や、数多くのOVホラー作品の脚本を手掛けて、監督でもある山本清史氏が、とても貴重な意見をX(旧Twitter)にポストされています。是非とも、リンク先の原文全部を読んでいただきたいところです。黒沢久子会長への手厳しい批判ですが、むしろ同業者から、こういう厳しい批判が出ることが、業界の自浄作用や健全性を、証明することだと思います。
そう、発端は脚本家(思うところがあって、個人の名前はあえて書きません)による、原作者攻撃がまず発端であったということを、誤魔化そうとする人間が、いますね。そのことをスルーするのは不誠実です。発端の Instagramの投稿内容に比較して、芦原妃名子先生の対応は、言葉を選んで、誤解が起きないように注意されていたように思います。また、「騒ぎにしたネットが悪い」というすり替えも、卑怯です。松井塾長の批判が正鵠かと。
例え本音はどこにあろうと、業界内部から協会員であろう某脚本家の、責任転換とも取れる発言に対して、批判するにしろ擁護するにしろ、きちんと言及すべきでした。そして、芦原先生へのお悔やみ。これは、礼儀として当然のこと。ナントカ弁護士会が、まるで会員の総意であるかのように政治的な声明を会の名前で発表しますが、協会公式が会長ほかの出演者でアップしたら、断り書きを入れてもそう思われるのは当然です。
■クリエイターのリスペクト■
芦原先生に関して、作品に口出しする作家というイメージを捏造している人たちもいますので、こちらのポストも紹介しておきます。第50回小学館漫画賞少女向け部門を受賞した代表作『砂時計』の映画化で、こんな感想を綴っておられたそうです。寡聞にして知りませんでした。映像作品に対する、リスペクトをちゃんとお持ちだったのが、この1ページの漫画から十分伝わってきます。
添付された漫画も、評論のために必要な引用として転載させていただきます。
クリエイターというのは、多くが見巧者でもあります。小説家であろうが漫画家であろうが、数多くの作品を見て、刺激を受けています。手塚治虫先生が激務の中でも、年に365本以上の映画を見続けたように。藤子不二雄のお二人がそれを踏襲されたように。だからこそ他の表現に対しても、リスペクトを持っている方が多いです。ところが、脚本家からはしばしば、漫画やラノベをバカにする発言が繰り返されているのも、事実です。
グレイシー柔術と総合格闘技が出てきて、必死に言い訳してる空手家や神秘系武術家のようで、哀れでもあります。自分は『花子とアン』も『西郷どん』も、もっと昔の『白鳥麗子でございます!』も、楽しく視聴しただけに残念です。総合格闘家は、空手もボクシングも、リスペクトしてるのに。ちなみに、さちみ先生は今回のドラマ版『セクシー田中さん』は、脚本家が務めたパートを1月26日の時点で高く評価されており、これまた是々非の漫画家であることを申し添えておきます。
■脚本家の鬱屈と構造問題■
構造的な問題として、脚本家は脚本だけでは成立しない存在だという面があります。それが舞台演劇用の脚本であれ、テレビドラマ用であれ、アニメーション用であれ、映画用であれ、それを演じる役者やアニメーターが形にし、実写なら音響や証明やカメラの、アニメなら声優などの力が加わり、ようやく作品になります。それ自体が 作品として完成している小説や漫画とは、その点が異なります。
この立場は漫画原作者もかなり近く、漫画家が作品化してくれなければ、それはただの作品の骨格でしかありません。だから昔の編集者には漫画原作者を、小説家崩れ の粗筋屋と、バカにする人も、けっこういました。梶原一騎先生も元々は小説家でしたし、小池一夫先生も山手 樹一郎先生の弟子だった時期があります。だからこそ梶原先生は強面で通し、自分の作品を守ろうとした部分はあります。
自分の作品のセリフは、句読点の位置さえ変更することを許さなかった梶原先生ですが。でも、そこさえ尊重してくれるのであれば、演出には一切口出しはされませんでした。原作者が漫画家と無理に会う必要はないとも、COMのエッセイ語られています。『砂時計』の映画スタッフに、上記のようなリスペクトを表明される芦原先生もまた、スタンスは近かったと推測できます。
超えていい部分と超えていけない部分、そこの すり合わせができていなかったプロデューサーと編集部の問題では? 一線を守らない人間が言う「私が対峙するのは原作であって原作者の方はあまり関係ないかな」は、梶原一騎先生とは前提条件が違います。勝手にセリフを変えたら、梶原先生も漫画家や編集部に、殴り込みに行くでしょう。手塚治虫先生とちばてつや先生は別格だと、セリフの改変を認めていましたが。その意味では、黒沢久子会長の言葉は、自分をそのレベルの脚本家だと、思い上がっているようにも取れます。
■クリエイターとそれ以外と■
自分自身は出版社に10年勤めた編集者ですし、退職後も本業はフリーランスの編集者です。それなりに多くの出版社の編集者とも接していますが、しょせん編集者は裏方であり、クリエイターではないという部分を誤解している人間が多いです。下手すると「自分はプロデューサーだ」ぐらいに、思いあがっています。出版においてプロデューサーは編集長です。編集者はテレビで言えば、ディレクターに過ぎません。
脚本家も、漫画原作者と同じで立場が弱く、仕事をくれるプロデューサーやテレビ局、映画会社は批判しづらいです。だからと言って同じフリーランスで、プロデューサーや編集者のように組織が守ってくれない立場の漫画家に、八つ当たりするのはいただけません。それは卑怯者がすることです。いわんや、仲間内で擁護とか、炎上して当然です。小説家であり 脚本も手掛けられた芦辺拓先生も、苦言を呈されていますが。
けっきょく、現時点でも最初に煽った 脚本家の方からも、日本テレビの方からも、小学館の方からも、公式なコメントは出ていません。あ、いや日本テレビは言い訳のようなコメントを出していましたね。特にマスコミは、企業の不祥事に対してコンプライアンスがどうの、記者会見を開けだの言うくせに、こういうことに関しては身内を庇ったりダンマリを決め込んだり、ダブルスタンダードが酷すぎますね。万機公論に決すべし。
■シナリオ作家協会へ提言■
さて、批判だけしても、荻上チキ氏と同じですから、脚本家への建設的な提案を。別noteにも書きましたが、脚本家は脚本の技術と同時に、自分の作品を小説化することで、自分自身の権利をきちんと確保しておくことが必要でしょう。これは、故鍋島雅治先生と、語り合ったことでもあるのですが。漫画原作者という立場の弱さを嘆く鍋島先生に対して、提案したことでもありました。
小説家の表現力は、簡単に真似できるものではありませんが、それは超一流の人の表現と比べて、という話であって。極端な話、視聴者の心に届くセリフを紡げる脚本家ならば、地の文は読者に状況が正しく伝わる、精確(正確ではない)な、でも平凡な文章力で良いと、自分は思います。学生とかで文章が下手な人というのは実は、上手い文章・かっこいい文章を書こうとして、かえって滑っている人が多いです。
横溝正史先生なども、最晩年の『悪霊島』などは、描写がおかしな部分が散見されましたしね。脚本家と小説家を兼務し、小説家としても高い評価を得ている脚本家は結構いるのですから、そういう人を講師に招いて、脚本を小説に仕立て直す技術を、教えてもいいでしょうし。小説も漫画も脚本も、物語を作る=作話の本質部分は共通していますから。後は、応用でしょう。MANZEMI講座でも、実験的にやっていることはありますので。
noteの内容が気に入った方は、サポートで投げ銭をお願いします。あるいは、上記リンクの拙著などをお買い上げくださいませ。そのお気持ちが、note執筆の励みになります。
どっとはらい( ´ ▽ ` )ノ