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英才教育の限界

◉ちょっと前に流れてきたけれど記事ですが。文部省が推進した「特定分野に特異な才能のある児童生徒への支援の推進事業」という英才教育に対する、疑義についての内容。実際に、それに先行する形で関わったNPO法人の、挫折体験なのですが。さもありなん……とは思いますね。だって日本の英才教育は、内実は促成栽培ですから。

【突出した子を集めた英才教育に挫折 「IQだけじゃない」学園の教訓】朝日新聞

 文部科学省が「これまで我が国の学校において取組はほとんど行われてきませんでした」と、今年度から始めた「特定分野に特異な才能のある児童生徒への支援の推進事業」。いわゆる天才児、ギフテッドと呼ばれるような飛び抜けた才能を持つ子への支援だ。

 ただ、民間でのギフテッド教育で先行したNPO法人翔和学園(東京都中野区)の中村朋彦さんは「レベルが高い集団で英才教育を施し一芸を伸ばす、そんな単純なものではなかった」と振り返る。

 才能を伸ばす試みがうまくいかなかった理由、挫折から得た教訓、形を変えた新たな試みを聞いた。

https://digital.asahi.com/articles/ASRDX4TVJRDQUCVL04V.html?ptoken=01HKBS0A9ZS07240AK548GCSTT

ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、

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■英才教育は親の問題■

英才教育と促成栽培の違いは何かといえば、目先の結果を求めるかは求めないかでしょうね。柔道の方では、小学生の学年別全国大会が廃止になってしまったのですが。これって、あまりにも勝利にこだわって加熱する親側に対する、ある種の抑制の面があるのです。そう、日本の場合は実は、親の側の問題が大きいんですよね。容易にステージパパ・ステージママになる。

平素より当連盟の事業にご支援、ご協力を頂きありがとうございます。
さて本年より、全国小学生学年別柔道大会は廃止することと致しました。各位のご理解を頂戴するため、この判断に至った理由を申し述べます。
昨今の状況を鑑みるに、小学生の大会においても行き過ぎた勝利至上主義が散見されるところであります。心身の発達途上にあり、事理弁別の能力が十分でない小学生が勝利至上主義に陥ることは、好ましくないものと考えます。
嘉納師範は「勝負は興味のあるものであるから、修行者を誘う手段として用うべきであるが、本当の目的に到達することが主眼でなければならぬ」と述べておられます。また、「将来大いに伸びようと思うものは、目前の勝ち負けに重きをおいてはならぬ」ともされています。

小学生には小学生の、中学生には中学生の、高校生には高校生の、その年齢にあったトレーニングや課題があるわけです。ところが、自分の子供を芸能人にして一発当てようっていうタイプの親と一緒で、すぐに結果を求めて、手っ取り早く効果や 結果が出る方法論に飛びついてしまうんですよね。そうすると小学校では通用しても、年齢が上がるに従って通用しなくなってしまう。

野球とかが典型例なのですが、小学生に過剰な技術を求めたり。あるいは、高校生にウエイトトレーニングを強制して、筋力を高めて金属バットに特化した大雑把なスイングで、甲子園大会だけで勝てれば良い方法論を採用する。陸上会の長距離種目においては箱根駅伝が、野球における甲子園大会的なポジションになりつつあるようですが。

■英才教育と促成栽培■

だから日本の野球とか、小学生のリトルリーグとかだと世界大会でも上位に行くのに、中学生高校生となるに従って世界と差がつき、プロのレベルになると大きな差がついてしまう。それは英才教育ではなく、促成栽培だからなんですよね。原因の一番は技術偏重にあると、個人的には思っています。日本の職人技は確かに、大工も料理人も工芸でも、習得に長い時間が必要な技術が多いのですが。

原辰徳氏の父親は名監督としても知られましたが。息子が小学生の時には機械体操をやらせて運動神経全般を鍛え、中学では陸上競技で基礎体力全般をバランスよく鍛え、高校から本格的に野球の技術を教えたとか。こういうのが本当の英才教育であって。自分自身が一流の指導者であったからこそ、大学を卒業した後プロに入る息子の未来を、俯瞰されていたわけです。

日本の場合だと、野球だったら野球だけに専念させるのをよしとする風潮がありますが。自分はこれを、悪しき紫綬褒章主義と呼んでいますが。アメリカだと、4大スポーツを中心に掛け持ちするのが当たり前。だから、高校や大学を卒業する時点で、複数のプロスポーツからドラフト対象になる選手も少なくありません。自分自身が、経験してないことはなかなか教えづらいですからね。

■秀才が天才を育成?■

これは勉学でも、たぶん同じで。東京大学法学部を出た官僚たちは、自分たちを天才だと思っているかもしれませんが。5教科を満遍なくこなせるのは秀才ではあっても、必ずしも天才ではありません。だいたい、共通テストを受ける 50万人 前後の受験生で、上位1%の5000位に入れば、学部学科を選べなければ、日本の大学ならばどこでも入ります。

東京大学って毎年3000人ぐらい入学しますからね。自分の高校の同級生のように、東京大学に合格しながらも、地元鹿児島で開業医になることを考えて、地域的な人脈が作れる九州大学の医学部に進学したり。ラ・サール高校から東大に現役合格した知り合いに言わせると、ラサール高校でも国立医学部は別格の扱いだったそうで。

旧帝大は合計で19000人弱がないとし合格し、一橋・東工・筑波・神戸大など国公立の一流どころを加えれば、2万人弱。これに私立の早慶にMARCH、上智や学習院やICU、関西の関関同立などを加えると、上位10%ぐらいが報われるんですよね。なにしろ、私学の雄である早稲田だけでも1万5000人以上が合格しますから。

■人間的成長が不可欠■

でも、天才って 0.1% どころか、0.01%の世界なんですよね。有名な小説の賞のデビュー率が0.1%ぐらいですから、その中で天才と呼ばれるのは、0.01%ってのは。では、秀才に天才の育成プログラムが組めるか? たぶん、無理でしょう。下手すれば、角を矯めて牛を殺す事になりかねない。欧米はある意味で、天才型を育む文化がありますが。

日本は突出は許さず・脱落も許さずの、島国の村社会ですから。量産型をハイレベルで育てるのが日本の文化ですから。だいたい、日本だってノーベル賞やフィールズ賞級の天才は、それなりにいますが、その人達が飛び級とかの英才教育を受けたわけではないですしね。天才は凡人の教育で潰れないが、凡人は天才の教育で潰される。ギフテッドとか、過剰に持ち上げるのは違いますね。

 「IQの高さゆえに学校の授業に魅力を感じなかったり、才能の凸凹の凹の部分ばかり指摘されることで意欲をなくしたりする子が多いです。恵まれた才能を生かして凸を伸ばすことに特化すれば、社会にイノベーション(技術革新)を起こす未来のエジソンやアインシュタインが生まれるのではと、2015年にIQ130以上を目安に選抜した小学生によるアカデミックギフテッドクラスを設けました」

だいたい、外国でも異常に知能指数が高い子は、あんがい人生で成功していないというデータもありますから。しょせん、指標のひとつに過ぎないわけで。個人的には飛び級よりも、学年制を排除して、小学校の中で自分のレベルに合わせたクラスを選べる、ホームルーム制度の方がいいでしょうけれど。これ、いじめ対策にもなるし、境界知能なのに無理に進級させる横並び方式も、解消できると思うのですが。

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