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映画感想:劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン

公開二日目に観て、もう5回リピートしているのですが、感想を書くのを躊躇していました。作品自体はとても幸せなエンディングを迎えただけに、エンドロールでスタッフの名前を見ると、この素晴らしい才能が不条理に奪われたことと、奪った狂人への怒りがこみ上げてきて。冷静になってから書こうと思ったのですが、けっきょく抑えてもどこか不自然になるので、踏ん切りを付けて。公開2ヶ月が過ぎ、私も少しは冷静に書けるのです。

※2020年12月3日追記:noteのクソ仕様で、また記事データが飛びました。記憶を頼りに、できるだけ復旧させますが、しばしご容赦を。復旧といっても完全な再現は無理ですので、もう開き直って新たなエントリーとして、新規書き下ろしに近い感じだと思っていただいて結構です。細かいデータ的な部分はもう、再現するのは不可能ですし。noteの自動保存機能を無くすか、記事を新規公開しても、その前の公開記事の状況に戻せる機能、有料版限定でいいので実装して欲しいです。゚(゚´Д`゚)゚。

劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン

2018年にテレビ放送された京都アニメーションによる人気アニメ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の完全新作劇場版。戦時中に兵士として育てられ、愛を知らずにいた少女ヴァイオレット・エヴァーガーデンが、「自動手記人形」と呼ばれる手紙の代筆業を通じて、さまざまな愛のかたちを知っていく姿を描く。人々に深い傷を残した戦争が終結して数年、新しい技術の開発によって生活にも少しずつ変化が現れ、人々は前を向いて歩み始めた。ヴァイオレットも大切な人であるギルベルトがどこかで生きていることを信じ、彼への思いを抱えて生きている。ある時、ギルベルトの兄ディートフリートと対面したヴァイオレットは、ギルベルトのことを忘れるよう諭される。しかし、ヴァイオレットにとってギルベルトを忘れるなどできないことだった。そんな彼女に、ユリスという少年から代筆の依頼が入る。時を同じくして、ヴァイオレットが働くC.H郵便社に宛先不明の一通の手紙が届き……。監督は、テレビシリーズに引き続き石立太一が務めた。

2020年製作/140分/G/日本
配給:松竹

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※本エントリーの中には一部ネタバレを含む内容があります。読み進める方はその点に十分留意した上で、自己責任で読まれることをお勧めいたしますm(_ _)m

■三筋の物語が至る場所■

京都アニメーションが放火殺人事件によって36人もの尊い命が犠牲になった悲劇を乗り越えて、ついに公開に至った劇場版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』ですが。テレビ版13話と、DVDとブルーレイ特典の一本を、Netflixで先に鑑賞しておくと、感動が倍加します。もちろん映画単体としてみても非常に出来が良くて、そのまま感動できます。作品としては、三つの物語が同時並行的に進行するという、ちょっと凝った構造になっています。

ひとつは主人公のヴァイオレット・エヴァーガーデン自身が、ギルベルト・ブーゲンビリア少佐と再会する物語。もうひとつはヴァイオレットに仕事を依頼したユリス少年が家族に手紙を残し、友達リュカと和解するお話。もうひとつはテレビ版第10話に登場したアン・マグノリアの孫のデイジー・マグノリアが、ヴァイオレットの足跡を訪ねる物語。こちらは数十年後という設定になっているようです。

ここで描かれているのは、和解の物語。病気のために親友と疎遠になってしまった少年。母親の前ではついきつい物言いをしてしまう娘。そして愛する女性に対して、戦場に駆り出しその両腕を失わせてしまったという負い目を持った男───。この3人が自分で自分の心に造ってしまった壁を取り払い、和解するまでを描いた作品。一見すると三者三様のように見えて、実際はひとつのテーマを追いかけているわけです。

■愛の在り方は多種多様■

このような和解の物語を繰り返し描くことで、個々の話が持っている強引な部分とか、矛盾部分とかを中和する作用があります。例えば、ヨーロッパを模したこの世界に月命日という概念があるのかとか。ディートフリート大佐がいったい何時・どうやってエカルテ島にやってきたのか、とか。母親のクラーラ・マグノリアが娘のアン・マグノリアへ宛てて書いた手紙は50通あったはずなのに、手紙入れの中に残されているのは数が少なすぎないか……とか。

愛を知らないヴァイオレットが愛を知る物語として、本作は一般に認知されています。作品説明でもそうですしね。しかし自分個人はこの作品を、愛を自覚する作品というふうに捉えています。ヴァイオレットには、ギルベルト少佐と初めて出会った十歳ぐらいの少女の頃から、すでに彼に対する愛はあったのだと。ただ本人は、それが愛だと気づいていなかった。それを徐々に自覚する物語だと思っています。

愛のカタチというのは何も、男女の愛だけに限定されるものではないでしょう。と言うか、本作ではテレビ版を通して、様々な愛の形が描かれています。それは兄弟愛であったり、親子の愛であったり、友愛であったり。どちらかといえば慈悲など、西洋的な愛よりも東洋的な愛の形も含んでいるように思います。そもそも愛と一口に言っても、多様な部分があるはずですから。

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■少女は最初から女だった■

ヴァイオレットとギルベルトとの愛を、男女の恋愛か親子の情愛的なものか、ゼロイチで綺麗に色分けできるものでもないでしょう。いろんなブログなどの考察も読んでみましたが、親子愛的なものから男女の恋愛的なものに変化したという意見が多いですが、自分はそこは違うと思います。

むしろ最初は男女の恋愛からスタートして、それ以外の様々な愛の形をヴァイオレットが知り、自分の少佐に対する愛の中にはそういう多様な愛の形も含むことに気づく物語として、捉えた方が良さそうな。ディートフリート大佐もブーゲンビリア未亡人も、少佐と同じ翠色の目をしていますが、ヴァイオレットが美しいと感じたのは、少佐の瞳なのですから。それは恋愛でしょ、と。

テレビ版の第5話の、ドロッセル王国のシャルロッテ王女は、10歳で出会ったフリューゲル王国のダミアン王子に、たった一夜、わずかな言葉を交わしただけで恋をしています。いわんや、ヴァイオレットとギルベルト少佐の関係は、もっと長くて深くて濃いのですから。幼いヴァイオレットと話すときも、できるだけ目線を合わせる、優しきギルベルト王子様。彼女にとっては特別な、唯一無二の存在。あの方は世界のすべてで、彼が居ない世界は生きていく価値がなく、その死を知って自殺しようとしたほどに。

■裏のテーマは女性の自立■

もう一点。本作でとてもに重要な部分として、女性の自立という部分が描かれてるように思います。これは劇場版の前作にあたる外伝でも、ヴァイオレットと同じ自動手記人形の結婚と引退という点で語られていたことの、回収と言ってもいいのかもしれません。結婚によって寿引退するのではなく、結婚後も働く女性として自立するという部分。その答えが、本作では描かれています。ぜひ映画で確認を。

京都アニメーションはもともと、東京でアニメーターをしていた女性が帰郷して始めた歴史があるため、女性スタッフが数多く在籍しているそうです。また脚本の吉田玲子さんをはじめとして、本作のスタッフにも女性が数多く参加しています。それゆえにヴァイオレットは寿退社することなく、エカルテ島でもある仕事を続けたことが、デイジー・マグノリアによって語られています。その内容が何かも、映画で確認していただくとして。

アン・マグノリアの孫のデイジー・マグノリアが生きる時代は、明言はされていませんが、もうヴァイオレットもギルベルト少佐もこの世を去っていることが示唆されます。当然ですね、ヴァイオレットよりも年下だったアンが、高校生か大学生ぐらいの孫がいて、既に亡くなっている世界線ですから。でもこの設定自体は、京都アニメーションからの、放火事件を経た上でのファンへの、メッセージに思えました。

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■不易流行──消える物・残る物■

ヴァイオレットが未来ではいなくなってしまって、自動手記人形──ドールという仕事がすっかり廃れてしまっても、手紙で思いを伝えるという行為自体はずっと残っていて、受け継がれていく。不幸にして京都アニメーションで亡くなったスタッフの方々の思いも、未来において受け継がれていってほしい。そんなことが込められていると感じたのですが……鑑賞された皆さんはいかがでしたか?

自分たちが死んだ後もアニメーションという表現は残って……ひょっとしてアニメーションという表現自体がなくなったとしても、それは何らかの形で後世の文化に影響を与え、形を変え姿を変え表現を変えても、何らかの形で伝承されていくのではないか。そんなことを思ったりするのです。だって私たちは、今から1000年前に紫式部が書いた小説を、なんとか読むことができます。

当時は印刷技術も未発達で、本は手書きで筆写するしかなかったですし、本の形式も和綴じの冊子か、巻物の形状でした。しかし本の形状も流通方法も変わってしまっても、その内容は未だに残っているわけですから。それと同じことが、アニメ表現の世界でも起きる可能性は高いでしょう。本作『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も未来において、多くの人々の心に波及して、何十年何百年先にも残って欲しいです。

■『おぢいさんのランプ』との共通点■

ここら辺は、『ごんぎつね』で知られる童話作家・新美南吉の『おぢいさんのランプ』で描かれたテーマとも通底しますが。今は本屋になった祖父が、かつてはランプ屋をやっていたことを、この作品では孫に語ります。ろうそくの時代からランプになり、それが文明の利器に思えたおじいさんはランプ商になるのですが……時代が変わり、電線が街には張られて、ランプは衰退産業に。ここら辺は、現代と変わりません。

かつての花形産業の造船や液晶や半導体産業などが衰退し、日本という国も少子高齢化が様々な場面や社会構造にも影響し、暗い未来をマスコミは執拗に喧伝します。しかしランプが電灯になっても。時代が変化して廃れてしまうもの、生き残るもの、形を変えて伝わるもの──それぞれです。そういったものが、本作には描かれているような気がします。テレビ版から劇場版外伝、そして本作。最初から1本の線になっています。見事な1本の線に。

ありがとう、ごめんなさい、愛してる……本作で繰り返し登場する、心を伝える言葉は、これからも残っていくように。素晴らしい作品を作り上げ、公開までこぎつけた監督、脚本はじめスタッフの皆さん、登場人物命を吹き込んでくださった声優の皆さんに感謝を捧げ。自分も、この作品を愛しているという気持ちを、伝えたいと思います。
ありがとうございます。

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追記:もしもテレビ版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の第二期が制作されたら、という妄想であれこれネタを考えました。妄想ですが、楽しくノリノリで書けました。数年後でも良いので、テレビ版第二期、期待したいです。だって、願っていれば想いは叶うのですから。

※以下は有料ですが、作品づくりに興味がある人向けの内容ですので、無理に読む必要はありません。何かの参考に多少でもなれば嬉しいです。

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