マイケル・スタイプの電話帳
◉電話帳を読んでも感動させられる……って、マイケル・スタイプの言葉だったんですね。ロバート・デ・ニーロだったかジャック・ニコルソンだったか、レストランのメニューを読んでも泣かせられるとかいう例えを読んだ記憶はありますが。徳弘正也先生の漫画だったっけかなぁ? コチラはカメラマンによる写真表現のお話なので、自分は漫画原作者や編集者、講師の立場から、作話からのアプローチをば。
軽いネタなので、さらっと読める内容かと思います。先ずは上記noteをご一読願いますm(_ _)m
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■形態展示■
例えば、動物園。客を集めるにはどうすればいいか? 「客寄せパンダ」という言葉があるように、珍しい動物を見せる。これで上野動物園は十重二十重に行列ができたように、珍獣大事。自分が鹿児島にいた頃は、第二のパンダを目指して、コアラ争奪戦が各地の動物園で繰り広げられました。鹿児島の平川動物公園も参戦し、大騒ぎになりましたから。ズーラシアだと、オカピを全面に出しました。
ところが、これは限界がある。元noteで指摘されてる風景写真で、最初はロケーションの勝負になるのと同じですね。自分がガキの頃は、どこかの高原に一本だけ生えた白樺の写真とか、カメラ好きがわんさか押し寄せて撮影してた記憶があります。カメラの場合は機材勝負の時期もあって、一眼レフだ純正レンズだサンニッパだの、道具に凝る時期もあるのですが、そこは本論から外れるので割愛。
いずれにしろこのような珍獣を客に見せるのは、形態展示と呼んでいいでしょう。その姿形を見せるのですから、見世物小屋などと基本は一緒。これがモナリザやツタンカーメン王の黄金のマスクでも本質は一緒。おおかたの美術館というのは、このタイプ。ここでもやはり命がおどれぐらい揃えられるかが大事になりますが。動物園が面白いのは、これとはもうちょっと違ったアプローチができる点でしょう。
■生態展示■
でも、パンダは1日のほとんどをゴロゴロ寝てる。コアラも、あれは有袋類のナマケモノと同じ生態的地位。ユーカリという、他の草食動物が口にしない有毒成分を含んだ植物を食べることによって、長時間かけてそれを消化するのですから。こちらもほとんど動かない。最初は珍獣が寝ている姿を見るだけでも満足していた観客も、それだけではなかなかリピートしませんね。当然です。
で、自分が小学生の頃、各地にサファリパークが作られました。富士サファリパークとか、宮崎サファリパークとか。こちらは狭い檻の中に動物を閉じ込めて展示するのではなく、広い敷地内で動物たちを自由に行動させ、人間が車に乗ってこれを見学するという方式。自然な状態で動物たちがどのように生活しているか、生態を展示するわけです。自分も小学生の時に宮崎サファリパークに行きました。
実際にキリンやゾウ、ライオンなどが歩いてる姿を見るだけでも、かなりの迫力でした。これがもうちょっと進むと、ナイトサファリのように夜行性の動物の展示も行われます。とはいえ、一世を風靡したサファリパークもどんどん数が減ってしまい、現在はかなり希少な存在になってしまいました。生態展示が行き詰まった次に出てきたのが、北海道の旭川動物園で話題になった行動展示でした。
■行動展示■
映画にもなった旭川動物園ですが、決して珍しい珍獣がいるわけではなく。かといって、サファリパークのような形態でもなく。何か動物に芸をさせるという方法論もありますが、旭川動物園はそうではなく。陸上ではよたよたと歩いているペンギンが、水中では飛ぶように泳ぐ姿を見せることによって、本来の動物の生き生きとした行動を見せることで、ありふれた動物であっても魅力的だと気づかせました。
オランウータンのブラキエーション(枝渡り)やしろくまのダイビング。本来の彼らの本能のままの行動させることによって、動物すげー!となったわけです。これは動物に無理やり芸をさせるという見せ方ともまた違う、なかなかに画期的な方法論だと思いました。そしてこれは作品作りと言うか、ストーリーやキャラクターを考える上でも、重要な視点になりえます。
思うに、マイケル・スタイプの電話帳というのは、この行動展示に似てるのではないかと。何か見た目が派手な服装をしてたり、外見的な特徴──イケメンやキテレツな顔、フリークス的な特徴──で観客の目を引くでもなく。あるいはダンスであったり歌であったり、そういうわかりやすい形の芸でもなく。電話帳を読むという素人でもできることで、素人には真似できない芸を見せる。
■志ん生と圓喬■
頭の悪い人が変なコメントをしないように釘を刺しておきますが、自分は別にダンスであったり歌であったりという芸を、否定しているわけではありません。むしろそういう芸を、高く評価する人間でもあります。しかしそういう芸も、誰にもやれないことをやる芸と、誰でもやれることをやる芸があると思うのです。誰でもやれることを、誰にもやれないレベルに磨き上げた芸。マイケル・スタイプの電話帳とはまさにこれ。
話芸というのは基本的に、誰でもできるものです。小学生でもできる。しかしそれが極まると、名文を読まなくても、人を感動させることができる……かもしれない。ここで思い出すのが、昭和の落語名人・古今亭志ん生の、高座で居眠りをしたにも関わらず、観客は志ん生を起こすでもなく、その寝顔を見て満足したという逸話。これもまたひとつの、芸の境地ではないでしょうか?
その古今亭志ん生が生涯の目標とした名人が、橘家圓喬という人物。落語中興の祖と呼ばれる三遊亭圓朝の弟子にして、その話芸は師匠を超えたとも讃えられ、妖刀村正にも例えられた話芸。真夏に『鰍沢』という真冬が舞台の演目を語ると、その寒さの描写に客の団扇や扇子がピタリと止まったとか。話芸の極致。しかし志ん生の逸話は、これとはまた別の芸の極致に、自分には思えます。
■奇を衒わず面白い■
作品づくりもこれ似ていて、登場人物の何か特徴的な外見や、特徴的な必殺技や言動、うり属性と呼ばれるような付加価値であったり、そういうものを前面に押し出した作品作りを求める編集者がいます。それ自体は勉強のために必要ですし、実際に読者もそういう部分に反応しやすい所はあります。しかしそういう部分だけで終わっていてはいけないのではないか、という思いが自分にはあります。
それは形体展示や生態展示と同じであって。割と表層的なことではないのか? 登場人物が同じ事態・事件・状況であっても、彼にしか選べない選択をする。そこにキャラクター性というものがにじむのではないか? その選択の独自性にこそ、キャラクター性というものが存在するのではないでしょうか? 小池一夫先生が提唱されていたキャラクター論というのは畢竟、そういうことではないのか?
そういう思いを自分は編集時代からずっと抱えてきました。では具体的に、どんなことをやれればキャラクターは立ち、物語は膨らみや深みを持ち、面白くなるのか? その具体的な方法論については、今週末から始まるMANZEMIの漫画ネーム講座第11期で詳しく。以上、長い長い宣伝でした( ´ ▽ ` )ノ