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映画『八つ墓村』の時代

◉とても興味深い松竹映画版『八つ墓村』についての、記事を見かけました。個人的には、松竹映画の『八つ墓村』って、好きなんですよね。世間的には、渥美清さんが演じた金田一耕助がイメージと違うとか、ホラー的な要素を強調しすぎているとか、批判が多いのですが。いろんな場面も改変が加えられ、原作クラッシャーなのですから、その批判は理解できるのですが……。でも、横溝作品は、ある意味で改変を許す部分がありますし。

【『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 中編】】CINEMORE

 渥美清が生涯にただ一本だけ探偵・金田一耕助を演じた松竹映画『八つ墓村』は、数多く作られた横溝映画のなかで最大の製作規模でつくられた大作であり、最大のヒットを記憶した点でも突出している。しかし、シリーズ化されることもなく、同時代につくられた市川崑監督の金田一シリーズに比べると、評価もかなり低い。

 この歪な状況はなぜ生まれたのか。興行の数字と評価の反比例というだけでは割り切れないものがある。その謎は、企画から撮影、公開にいたる流れをつぶさに見つめることで明らかになっていくだろう。前編では企画段階のエピソードを中心に見てきたが、中編では横溝ブームがいよいよ加熱し、ようやく撮影に入ろうとする『八つ墓村』に何が起きていたのかを見てみたい。

https://cinemore.jp/jp/news-feature/3326/article_p1.html

ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、〝ホラー〟で検索したら、なんか怖い感じの写真が出てきたので、使わせていただきました。

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■能動表現と受動表現■

元々の 原作自体が、金田一耕助シリーズの中ではちょっと異色というか、一人称視点なんですよね。そして、金田一耕助自体が狂言回しというか、大して活躍しない。まるで、本来は金田一シリーズではなく独立した作品として構想され、仕方なく金田一を登場させたような感じで、最初読んだときは、横溝正史が良くやった、本来は別の主人公作品を人形佐七のシリーズにするパターンかと、疑ったほどです。実際は、金田一シリーズ長編4作目で、単に変化を付けたかったようですが。

なので、作品としてビジュアル化するときに、かなり難しい作品でもありますし、だからこそ、脚本家が腕のふるい甲斐がある作品でもあります。『セクシー田中さん』の原作改変問題で、かなり議論が出ていますが。個人的には、小説や漫画は能動的な表現で、アニメ魔や映画や舞台は受動的な表現だと思っていますから、ある意味で改変されて当然・改変しなければ成立しない、という部分があります。その改変の出来が良ければ称賛され、出来が悪ければボロクソ批判される。そんなものです。

八つ墓村は、追いかけてくる小川真由美さんとか、原作にないシーンで、原作ではもっと、あっさりしていたんですが。黄泉平坂の昔から東海道四谷怪談のお岩さんまで、追いかけてくる女の怖さを、存分に発揮していましたし。松竹版は、犯人がなぜ多治見家を滅ぼそうとしたかの因縁を、渥美清さん演じる金田一耕助に語らせていて、個人的にはあの改変はとても評価しています。どうせホラーに振り切るなら、ああいう因縁譚にしたほうが、けっきょくはキレイにまとまるというか。

■視覚化で相棒役大事■

そもそも、横溝正史作品は、始祖エドガー・アラン・ポーの系譜を受け継いでいて、ゴシック・ホラー的な部分が多分にありますが。それ以上に、視覚的なんですよね。映画などにしたとき、逆さまの佐清とか菊人形の生首、枡で計って漏斗で呑んでとか、印象的な画作りができる。名監督・内田吐夢でしたか、映画は画作りと喝破していましたし。また、本陣殺人事件や犬神家の一族の琴の音とか、手毬唄を歌う老婆とか絶叫する濃茶の尼とか、とても聴覚的でもあるんですよね。

また、小説だとあまり気にならない男女の配属比率も、かなり大きなポイントになるんですよね、特に実写作品の場合。だから、東野圭吾『変人ガリレオ』シリーズでは、警察側の相棒役の草薙俊平ではなく、内海薫が立てられてバディ的になり。あるいは、海棠弥先生の『チーム・バチスタの栄光』や『ジェネラル・ルージュの凱旋(』では、不定愁訴外来の田口公平が、竹内結子さん演じる田口公子に変えられたわけで。これ自体は、賛否がありましたが。TV版の西遊記で、三蔵法師を美人女優が演じるのと同じです。

 「始まる前がよかったですよねえ。こう、探偵のアシスタントをやるきれいな女優さん。まあその年の新人とかね、売り出し中の女優さんなんかが出ていて『私、こんなこと、ここでお話していいのかしら』といった出だしでね(笑い)。そこでバーンと字幕が出る。ああいうの、オレたち、とっても引き込まれましたね。ウーン、あの語り口ってのはなんともいえなかったですよね」(『日刊スポーツ』77年3月29日)と

その意味で、渥美さんが単独探偵で、ワトソン役らしいワトソン役がいない部分を補う、バディ的な部分に気づいていたのは興味深いです。シャーロック・ホームズの相棒兼記述係のワトソン役も、始祖エドガー・アラン・ポーの発明ですが。アガサ・クリスティはヘイスティング大佐を退場させたように、作家にとっては意外と使い勝手が悪く。金田一シリーズも、横溝正史が作中の作家となり、金田一から話を聞いて記述している形で、ワトソン役の影が薄いですが。映像表現では重要なんですよね。

■テレビ版金田一耕助■

この記事で興味深かったのは、松竹のほうが角川よりも先に、映画化に動いていたという点ですかね。松竹というと、どうも二番煎じの印象はあります。東映ヤクザ路線がヒットすると、安藤昇主演の『血と掟』など制作したり。スタジオ・ジブリがヒット作を出したら飛びついて、高畑勲監督の『となりの山田くん』でコケたり。まぁ、松竹は東映ヤクザ路線のパロディとして『男はつらいよ』で大ヒットを出したんですが。パロディにされた東映も寅さんの二番煎じで『トラック野郎』シリーズとかやっていましたが。

金田一シリーズの映画化は、角川の動きを見ての先制パンチだったのか、もともと片岡千恵蔵御大の人気シリーズだったので、映画化案が通りやすかったのか。元記事にもあるように、規模的にもかなりの予算をかけた大作で、興行的には当時の金田一モノ映画としては、最大の成功だったのですが。あとが続きませんでしたね。渥美さんが、寅さんの影響が強すぎたのか。金田一耕助というと、石坂浩二さんのイメージですもんね。自分などは、TV版の古谷一行さんですが。

もともと、横溝正史作品は長編は内容が長すぎて、そもそも映画の90分から120分の基本的な尺に、収まらないんですよね。だから、映画ではいろんな要素がカットされる。『犬神家の一族』の青沼静馬の母親とか。でも、TVの横溝正史シリーズはわりと、原作に忠実に作って、でも犯人は原作小説と変えるという改変で、『犬神家の一族』は5回とか『本陣殺人事件』は3回とか、柔軟でしたね。横溝正史自身も、石坂浩二さんはかっこよすぎるので古谷金田一が好みだったようです。あれは、作者も了解の上の改変でした。

後編も楽しみです。

※追記です。

松竹版『八つ墓村』が期間限定で、YouTubeで無料公開中です。未見の方はこの機会に、ぜひどうぞm(_ _)m

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喜多野土竜
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