ゲノムが明かす日本人のルーツ
◉大橋順東京大学教授の研究が、日経サイエンスに掲載されており、それを日経新聞が紹介しています。一般的なイメージと違って、なかなか興味深い内容になっていますね。もちろんこれは、戦後の人間の移動も影響されてるでしょうけれども。
【渡来人は四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ】日経新聞
私たち日本人は、縄文人の子孫が大陸から来た渡来人と混血することで生まれた。現代人のゲノム(全遺伝情報)を解析したところ、47都道府県で縄文人由来と渡来人由来のゲノム比率が異なることがわかった。弥生時代に起こった混血の痕跡は今も残っているようだ。
東京大学の大橋順教授らは、ヤフーが2020年まで実施していた遺伝子検査サービスに集まったデータのうち、許諾の得られたものを解析した。1都道府県あたり50人のデータを解析したところ、沖縄県で縄文人由来のゲノム成分比率が非常に高く、逆に渡来人由来のゲノム成分が最も高かったのは滋賀県だった。沖縄県の次に縄文人由来のゲノム成分が高かったのは九州や東北だ。一方、渡来人由来のゲノム成分が高かったのは近畿と北陸、四国だった。特に四国は島全体で渡来人由来の比率が高い。なお、北海道は今回のデータにアイヌの人々が含まれておらず、関東の各県と近い比率だった。
ネット上では、聞きかじった遺伝子の話を執拗にコピペする方がいますが。実際には日本人はユーラシア大陸の東端に位置し、いろんな民族が混交しているので、遺伝的な意味で日本人というのは特定できないんですよね。
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■なぜ関西と北陸に渡来人?■
詳しくは記事を読んでいただくとして。これって、渡来人が半島経由で断続的に日本列島に流入していたのなら、北部九州とかもっと渡来系の遺伝子が多くないとおかしいですからね。しかし、玄関口である福岡や佐賀の遺伝子は薄く、瀬戸内海の両岸はむしろ四国側のほうが濃いという矛盾した結果に。ということは、渡来人は太平洋側からやってきて四国の高知県や和歌山県に上陸して、そこから京都や滋賀に北上した? んなアホな。
普通に考えれば、これは半島から北陸への渡航ルートが有り、どうも敦賀湾や若狭湾のあたりから上陸した渡来人が、現在の鯖街道みたいな陸路を使って南下し、滋賀・京都・奈良・和歌山を経て四国にも移住したと、そういうルートを想定できますね。福井県の遺伝子が滋賀や京都より薄いのは、逆に古くに渡来した後、流入途切れ南下したからでしょうね。で、これには日本書紀などの古文書を見ても、実は根拠がないことではないんですよね。
■天日槍と都怒我阿羅斯等■
日本書紀に天日槍(アメノヒボコ)という、渡来系の神様が登場します。日本書紀の垂仁天皇三年三月条に、新羅王子の天日槍が渡来したと記されています。日槍は播磨国に現れ、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらくいたのち、近江から若狭国を経て但馬国に至って居住したとWikipedia先生には説明されています。渡来人の祖先神神話で、兵庫・京都・滋賀などに多い渡来人の祖先を網羅するため、いろんな地域に立ち寄った形にされてるのでしょう。
日本書紀にはもうひとり、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)という半島出身の人物の伝承もあります。意富加羅国の人物ということで、金官伽耶、任那の人物ですね。穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着したという伝承があり、どうも半島南部から日本海側を出雲から敦賀に北上するルートがあったようで。都怒我阿羅斯等が敦賀の地名になったという説もあります。ここらへんを伝奇漫画にしたのが、永久保貴一先生の作品です。
■越の八岐大蛇と諏訪大社■
さて、例えば出雲神話で有名な八岐大蛇(ヤマタノオロチ)。正確には高志の八岐大蛇、つまり越の国からくる怪物です。越とは現在の新潟のことですから。八岐大蛇の伝説は、新潟から福井にかけて、生贄を農耕神に差し出す文化を持った渡来系民族のことではないかというのが、永久保先生の仮説。須佐之男が助ける奇稲田姫は、柱に串刺しにされる生贄の巫女のこと。出雲・敦賀・越という日本海側の地域こそ、実は渡来系農耕民の地。
また、国譲り神話で、建御雷神(タケミカヅチ)に力比べで破れた出雲の建御名方神(タケミナカタ)は、日本海を北上して諏訪まで逃げて、諏訪大社の祭神になります。どうも、新潟や富山から信州へのルートがあったのでしょうね。おそらくは信濃川を使った、ルートでしょうけれど。実際問題、縄文時代には黒曜石が日本各地で流通しているのです。世界の火山の9%が集中する日本は、実は良質な黒曜石の名産地。古代の資源大国だったんですね。
■世界最古のヒスイ交易圏■
長野県の和田峠の黒曜石とか、新潟県北部から日本海側の伊豆半島まで、1万年ほども昔から幅広く交易されていたことが解っています。また隠岐の黒曜石とか、海を渡ったウラジオストクやナホトカの1万8000年前の遺跡や朝鮮半島からも発見されていますから。伊豆諸島の神津島産出の黒曜石に至っては後期旧石器時代、つまり紀元前2万年の南関東の遺跡で発見されています。つまり、航海技術も陸路の踏破も、古代人はアクティブだったわけです。
加えて、新潟の糸魚川はアジア全体でも珍しい翡翠の硬玉(翡翠輝石=ジェダイト)の産地です。軟玉(ネフライト)は中国でも算出されるのですが、硬玉は日本とビルマのみ。硬玉の産地としては世界最古の可能性もあり、縄文時代前期後葉の約7000年前には糸魚川から各地に交易品として流通し、三内丸山遺跡や八丈島まで出土していますね。卑弥呼が翡翠を献上した記録も残っています。農耕以前に、日本は黒曜石に翡翠に琥珀に真珠にと、貴石を算出する土地として、交易が活発だったんですね。
■ポリネシア系の海洋文化■
さらに言えば、日本の文化の基底には、ポリネシア系の文化があったりします。イースター島のモアイが、褌(ふんどし)を着けて正座し、背中に文身(イレズミ)をしているのも、ポリネシア系の特徴ゆえ。魏志倭人伝に「文身亦以厭大魚水禽」とあるように、弥生時代から文身の風習がありましたし、「今倭水人、好沈沒捕魚蛤」とあるように、現在の海女に通じる潜水漁労の文化は、縄文時代から観察されています。潜水漁労をやってると、中耳骨に特有の変形が出るので。
ポリネシア人は4500年ぐらい前に南下を開始し、世界中に散っていったわけですが。ハワイやイースター島に到達した民族が、台湾から沖縄諸島、南西諸島を経由して日本に到達するのは簡単。それ以前に、6000年ほど前に現在の浙江省の河姆渡遺跡などで知られる農耕漁労民が、日本に稲作を伝えている可能性が、植物中の珪酸物質であるプラントオパールの研究から、指摘されています。そうやって、数千年から万単位の昔から、日本は大陸や東南アジアと関わりがあったわけです。
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