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kotonomi
聴くことにもう一度興味をもてたきっかけ
長く付き合いのある友人は、私に「ちゃんと聴いてよ」と言ったことは一度もない。多分彼女は、私に聴こえることを期待していない。
どれだけ聴こえる人になりたい!聴こえる人っぽくふるまいたい!と思っても、私の在り方は変えられない。
雑音の中でも相手の話をピックアップして聞き取る、ということが私は肌感覚ではわからないし、映画のBGMが耳に残る、ということも、上司と先輩の会話を側で聞いて色々学ぶ、ということもできない。
声を出すことはできても、なんとなく相手の唇をヒントに会話ができたとしても、わからないものはいっぱいある。
聴こえる世界と、聴こえない世界というのは確かにあって、一部分の音しか聴こえない私には、噛み砕けない何かがあると思う。きっと全部は理解できない。私はそこには行けない。どんなに頑張ったとしても。
ただ、そうやってできないことを正しく諦め、できない痛みと寂しさ、じれったさを自分自身で引き受けることは、絶望的なことではなく、むしろそこからが始まりなのかも、と最近思うようになった。
だからこそ、私は知りたいし、少しでもふれてみたい。
そういうふうに思ったとき、聴こえる世界を今までとは別の、好奇心のようなもので眺められるようになった気がする。
「ちゃんと聴かなきゃ」というプレッシャーは、まだ自分の中に残っている。
でも、聴こえても聴こえてなくてもいいよ、と言ってもらえる場があることと、聴こえない痛みを自分でちゃんと引き受ける覚悟が少しだけできたことで、不思議と気持ちがラクになった。
音を知る旅はまだまだ、つづく。