冷たいと感じるのはなぜか|Re:できない自分でいたい理由|「何もしたくない」という願望
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昨日、自分の文章について思っていることを書いた。そしてありがたいことに、何人かから素敵なフィードバックをいただいた。
彼らによると、私の文章はべつに冷たくないらしい。「むしろほっこりする」という声もいただき、とてもほっとした。
じゃあどうして、私は自分の文章が冷たいと思うのだろう。
自分の文章を「冷たい」と感じる理由
多分それは、活字の中にいる自分が普段の自分とは少し異なっていて、それを疑心暗鬼で見つめているからだと思う。
なんというか、普段表にはあまり出さないようにしている自分が、こちらの世界では表に立っているのだ。
文章をつくっている自分と普段の自分は、少し違ういきものなのかもしれない。書いている間、無意識に少しだけ近くなるのかもしれないとも思う。
変な話かもしれないけど、文章を書いている時、心と体が完全に一体化している。この感覚をどうやって伝えたらいいのか、ちょっとよく分からないけれど。
体が心の支配下に置かれていて、心のためだけに体が動いている感覚がする。
だから書いている間、五感は働いているのだけど、お腹はすかないし時間の流れもまったく分からない。
文章をつくることだけに特化した集中状態、と言ったらいいのだろうか。
そのために、気がついたら数時間はゆうに経ってしまっていて、へんてこな時間にお昼ごはんを食べるはめになるのだけど。
「活字の中にいる自分が、普段の自分と少し異なっている」と先ほど書いたけれど、この自分は完全な引きこもりだ。
ものすごく元気なんだけど、外界に下りて他人と話す気はほとんどない。基本的には自分とだけ会話をして、言いたいことを言い、私の中で自由に飛んだり跳ねたり羽ばたいたりしてみせる。
外で活動してきた自分との会話を足掛かりに情報を更新し、ブラッシュアップしている印象だ。外界の情報をエサとして生きていると言ってもいい。
だから、私なんだけど、私じゃないみたいな、そんな関係性。
他人の目と「常識的な自分」
もしかしたら、私が自分の文章を「冷たい」と感じるのは、他人の目を恐れているからなのかもしれない。
もちろん嘘はついてないし、主観的事実に基づいて好きなことを自由に書いている。
けれど、「そんなこと書いていいのか?」と疑問に思う自分がいる。
夢とも現ともつかないようなことばかり言っていないで、もっと地に足をつけて生きた方がいいんじゃないの?と常識的な自分が訴えかけてくる。
すごく怖がりで、後ろ指を差されるのが怖い自分。
誰かに怒られるのが怖くて、誰かに怒られたら存在意義がなくなってしまうと恐れている自分。
思考のクセをいろいろと変えて、「常識」や「こうあるべき」から距離を置くことに成功しても、そういう自分が消えてなくなったわけじゃない。
今は環境も状況も子どもの頃とはまったく違うから、怒る人はいないし、私もそんなことはしていないのだけど、それでも少し怖いのだ。
だから、自分の文章を疑心暗鬼で見つめているし、自分の中で確証を持てないでいるし、周りの肯定的な意見や評価を受け入れる態勢が整っていない。
他のひとたちに「天才ですね!!」と言う時と同じような気持ちで、自分にも賞賛を伝えられたらどんなにいいだろうと思う。それが私の一存で実現することも知っている。
しかし、私はこと自分を評価することに関しては素直じゃないし、やたら厳しい。かなりひねくれている。
一方で、厳しくすること、つまりよい自分を認めないことが都合がいい、ということも知っている。
まるで悪い習慣をやめられない人みたいだ。
良くないとわかっているのに、やめるメリットよりも続けるメリットの方が大きく思えてしまう。
ずっと続けていたことを急にやめるのは、確かに難しいし怖い。それに、この考えは思ったよりも私の基盤に深く広く根づいている。
でも、本当の本当に、「できない私」であることが都合がいいんだろうか?
どんな「私」にとって都合がいいんだろうか?
そろそろ締めくくって逃げてしまいたいのをこらえて、考えてみる。
Re:できない自分でいたい理由
私が、褒められても肯定されても自分の能力を認められないでいるのは、「できる自分」になってしまったら私が困るから、と以前考えた。
「できない自分」でいれば難しいことを頼まれないで済むし、「できない」が前提なのでできなくても私は傷つかない。できたら、ちょっとしたことで褒めてもらえる。
だから、自分のいいところを受け入れることは、「できない私」にしておきたい私にとって都合が悪いのだと。
ある意味で、すごくプライドが高い人間だ。
がっかりされたくないし、傷つきたくないけど、褒められたい。
自尊心を手軽に満たしたい。
私は、子どもの頃、自分のしたことでがっかりされたことがある。相手の顔は覚えていないが、その時の感覚がすごく恐ろしかったことだけは覚えている。
あんな恐ろしい目には二度と合いたくないから、私にとって相手の期待に応えるのはほとんど義務だ。
それは「しなければならないこと」であり、「達成すべき最優先目標」である。
でも、相手の期待に応えることは、私が本当にしたいことじゃない。
だから定期的に、すべての人付き合いが面倒になることが多い。
「もういいかな」と言って、のびた髪を切るみたいにバッサリと全部切り捨ててしまう。切られた髪を顧みることも、ほとんどない。
「何もしない」という願望
私が本当にやりたいのは、何もしないことだ。
畳の上で好きなだけゴロゴロしていたい。
そして、何もしないことを許してほしいし、「あなたは何もしなくていいんだよ」と言ってほしいとも思っている。
けど、「何もしないでいい」なんて許されなかったし、そんな人は周りにいなかった。そんなことが許される世界は存在していなかった。
いつも、私の意思とはまったく関係ない事情や規律によって動かされていた。
腹立たしかった。
憎しみすら感じていた。
気持ち悪いし、悲しいし、まったく楽しくないし、助けてほしいと言いたかった。総じて不愉快だった。
私が自分のいいところを認められないのは、「できない私」としておきたいのは、「何にもしなくていい」という理想を叶えるための免罪符だから、やめられないのだ。
すごく、たちが悪い。
大人になったら、たいがいのことはできるようになるだろう。
法的な手続きも一人でできるし、欲しいものを買うことも、そのために働くこともできる。どこに行くのも自由だ。
けれど、「何もしない」ということを手に入れている大人はすごく少ない。まったくゼロではないけれど、そのためにはお金が必要なことが多い。
つまり、何もしないでいるためにはお金が必要で、そのためには何かしら動かなければいけない、という大きな矛盾をはらんでいる。
めちゃくちゃつらい。
私が少しでも矛盾を緩和するためには、好きなことや得意なことで動きやすいように自らお膳立てしてあげる必要がある。
そうしてあげない限り到底働くことなどできないし、何もしたくない気持ちの方が圧倒的に勝ってしまう。
今のところそうやってだましだまし生きているけれど、いつになったら叶うんだろう。
何かをするたびに、もう少しかもしれない、と思いながらずっと試行錯誤を繰り返している。
私は、特別な才能も大きな成功も求めていない。
ただもう何もしなくていいんだと思いたい。それだけなのに。
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