褒め言葉「えらい」への違和感
・2200字強
・モヤモヤする理由は、「偉い」という褒めからは、「転じて言えること」がないからではないだろうか。
・大体の言葉は、情報量がある。「情報量がある」というのは、言い換えるなら「意思決定に関わってくる」ということだ。
言葉は、意思決定に関わってこないほど知名度が低いことだろう(顕著な例としては、幻想振動症候群や、イヤーワームなど)。それは褒め言葉においてもそうだ。
・例えば「自分は愛嬌がある」という事実からは、転じて、他人から何かを奢られるかもしれないし、就活に受かるかもしれないし、俳優になれるかもしれないし、そこからさらに二次的、三次的に利益があるかもしれないということがわかる。
つまり「君は愛嬌があるね」という褒め言葉には情報量がある。そう褒められることが意志決定に寄与してくるのだ。
・大体の褒め言葉において同じことが言える。「物知りだね」「聞き上手だね」「好き嫌いがないよね」「いつも上機嫌だよね」「体力があるよね」「絵が上手いよね」「褒め上手だよね」など。どれも「転じて言えること」がある。
・が、「君は偉いね」という褒め言葉はそうでない。「自分は偉い」という事実からは、転じて言えることが何もない。意思決定に何ら寄与しない、行き止まりの褒め言葉である。
・人を褒める目的は主に2つある。一つは前述したことからも分かる通り「適切なフィードバックを送ることで、相手のPDCAを回す手助けをする」という目的。もう一つは「私は君に心を開いており、敬愛/尊重しているよと伝える」という目的だ。
・「偉いね」という褒め言葉は、落ち込んでいる人を励ます文脈で使われ、後者だけを重視して、前者を放棄しているのだ。その文章では、情報量が行間だけにあるために、文章自体の意味はわからず、モヤモヤするのだ。
・という説明で「偉い」という言葉へのモヤモヤは晴れただろうか。「偉い」を理解できる人は偉いし、積極的に他人を「偉い」と褒められる人も偉い。←揶揄とかでなく、ほんまにね。
・個人的に「偉い」と同じモヤモヤを覚える言葉があって、それは「良い」「悪い」だ。あと「善」「悪」も。
・さっき、「偉い」について
こう言ったが、「良い」「悪い」と言う言葉に至っては、敢えてそうやって思考の行き止まりを作っている気がする。
・例えば、「信号が赤なのに渡ることは悪いことだ」という文章があったとする。その事実には、実際には「信号が赤なのに渡ることは、危ないから悪いことだ」という中間式があってその思考に至っているのに、中間式を省いている文章だ。
なのでその文章は間違いになることがある。仮に横断歩道を歩いている時、ど真ん中で歩行者の信号が赤になってしまったら、赤でも急いで渡った方がいいし、それを見た車は、青でも止まった方が良い。
お分かり頂けただろうか……シチュエーションによっては「信号が赤だが渡った方が良い」「信号が青だが止まった方が良い」と、良し悪しが逆転することがあるのだ。
今は信号という極めてシンプルな例を挙げたけど、世の中に存在する、良いか悪いかという議論の中には、もっと複雑なのがたくさんある。
複雑な思考を経て「ooは良いな」と思ったとき、その「良い」という結論だけ覚えておけば思考回路をカプセル化することができ、頭がスッキリすることだろう。
つまり、「良い」「悪い」という言葉を使うことは良いことだ(カプセル化)。
が、それはあくまで脳内での話だ。思考を言語化して他人に伝えるときに「良い」「悪い」という言葉を使ってしまうと、中間式の一切を切り捨てた説明ができるようになってしまう。「5匹の猿の実験」とか「アビリーンのパラドックス」のような、理由を述べずに結論だけ共有したことによる本末転倒が発生してしまうことがある。「信号が赤なのに渡ることは悪いことだ」と伝えられた人が、横断歩道の真ん中で静止してしまうようなアホくさい事例は、よく観測する。
つまり、「良い」「悪い」という言葉を使うことは悪いことだ(カプセル化)。
おそらく人間は、「良い」「悪い」という言葉を使用禁止にしても何不自由なく生きていけることと思う。
「信号が赤なのに渡ることは、危ないから悪いことだ」は、「信号が赤なのに渡ることは、危ない」で事足りる。
「他人のものを盗むと、逮捕されるし、相手が嫌な気持ちになる」「運動すると生活習慣病にかかりづらくなる」「募金をすると被災者が助かる」「老人に席を譲るのは功利的である」
どうだ。「良い」「悪い」などなくても何も困るまい。
皆様も、今後「良い」「悪い」という言葉を使用禁止にしてみては如何だろうか。
・余談だけど、私は「もの」「こと」という語もできるだけ使わないようにしている。大体の文章における「もの」「こと」は、もっと解像度の高い言葉で置換可能であるため……
・おわり