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重荷になっていたと気づいた娘としての役割

今、前頭側頭型認知症で要介護4の母を近距離介護といっても10キロ先の施設に預けながら、子育てをして仕事もしています。
それが当たり前になってから半年。
ただ、徐々に負担に感じていた理由が今更ながらわかったことがあって、それを言語化しておこうかと思います。

2023年11月、自宅で暮らしても毎日行方不明になってしまう、GPSつけているから本当に行方不明になるわけではないのですが、父の膵臓ガンの病状的にも限界、ちょっと外を歩いては病院搬送。もう無理しなくて良い状況に早くしたかったこともあり、なんとか施設入所に至りました。

入所したてのときは、やっと1日掛けて会いに行かなくてもよくなり、やっと対話ができると思っていたのですが、既に家族としての認知度はなく、言葉としての認知度もない。コミュニケーションをどう取ればいいのか悩みました。毎回会うときも私が弱いあまりに母に会ったあとはストレスで涙を流しながらで、プロの方ならば何か知見をお持ちなのでは…?と話していても、そもそも前頭側頭型に関する病気の存在も知らず、言い方を変えればいい、そのうち慣れるはず、そんなアドバイスをもらえたのですが、なんの変化もなく。自身で調べて色々試行錯誤をして目や耳からの反応はあることから、写真や音楽を主にコミュニケーションのひとつとして使っています。
10日に一度足を向けるようにしていました。

そんな中、施設から脱走失踪事件を起こしてから施設内では安全が確保できないと病院では監禁できるから、薬剤調整をしてほしいという話が上がり、身内に相談しても預かる義務はあるのだから無視しろとの一点張り。連日施設からの入院への催促。ひとりで調べて行動するしかありませんでした。そして末期で治療をやめた父のことも頭の片隅にありました。全部やらなくてはと思いました。ただ、葛藤しながら過ぎていた1月のある日、2度目の見舞いに行くことがなく、父は旅立ってしまいました。

何にも考えることがなく、でも父が痛みから解放されてよかった、としか思えませんでした。死への絶望感、痛みから何も話すこともできない。病気が発覚してからも対話はしてきたのに、どう声をかければいいのかわからない。そんな葛藤からは解放されました。

そうして入院の話を1週間延ばし、施設の要望を受け入れる形で入院手続きへ。すぐに空きがあるわけでもなかったのですが、父が旅立ってから2週間後に母は入院しました。

入院となると家族としても予約しなければ面会に行けません。洗濯物や日用品手配も任せてお金を使って手放しました。YouTubeには入院しても毎日見舞いに行っている家族の姿を見たりします。ああ、でもこの方はかなり高齢になってからで、家族も年金暮らし。私とは違う。

ここでひとつ変化がありました。
入院とは悪だと思っていたのに、実際にはなるべく部屋に閉じ込めることもせず、病気のことを認識している医師や看護師、専門家が常時見てもらえる安心感でした。
3週間に一度10分だけ面会ができます。母の様子は相変わらずで変わりがなかったのですが、見た目の清潔感が違いました。施設内では拒否するからとお風呂にずっと入れず手先もガサガサでボロボロ…。現場ヘルパーさんも頑張ってくれていることはわかっていたのですが、本人も快適ではなく私も辛かった。
それが何?このさっぱり感!!病院ってすごいと思いました。
それからの残りの入院期間の20日間だけは、私はやるべきタスクも役割もないので、安心して診てもらえるとやっと安堵することができ、別のことに目を向けることができたなと思いだします。

ただ、退院後にどうするかを決める家族会議をしてからはまた余裕がなくなりました。どうするか、って施設に戻れると医師が判断したのになぜごねられるのか、もう無理だと思いました。

そこで引っ越し先を探し、今の施設に引っ越すことに至るのですが、ここで予想外だったのが訪問医療切り替えに関して現医師が反対。葛藤はありつつ、訪問医療は使わず、家族が通院することで維持することになりました。

2024年5月から自転車で頑張っていけない距離から、月2回の通院が始まりました。

退院後一度だけ母と外食をしたのですが、ここに座って、ここでご飯食べよう、ちょっとここで待っててお支払いしてくるから、といった待ての姿勢ができたこと、美味しいねと言いあえたことに感動。

ここ2年の様子とは違って素の母を一度だけ見ました。この経験を何度かできたらと考えていますが、思ってたより通院の負担が大きい。それだけで母にかけてあげれる時間がなくなってしまいました。すごくもどかしく、時が経てば通院頻度も減って、訪問医療に切り替わるその時まで踏ん張るしかない。

そんな中、施設内でコロナクラスタが発生。なおかつ病院内でも発生。本人を連れていくこともできず、私はこの7月半ばにとりあえずの受診と処方箋を持っていき、消耗品や備品を抱え込んで持っていきました。施設の入口で書類記入をしてハンコを押しまくってやるべきことはもうない。

今日やるべきタスクは考えうることは、
もうない???

そして翌日の今、ふっと頭の中が軽くなっています。やはり重荷になっていたのは間違いなくて、ちゃんと目で耳で手で文字を書いているはずなのに、ちゃんと頭に入りきってなかった。

なんで理解度が違うんだろう。愕然としました。声を掛けるにももっと言いたいことがあったのに。

まずはその中途半端だった私に関わった方々にも申し訳ない気持ちにもなり、今できること、素直に自分に手をかけてあげることをやりたいなと思いはじめています。

今日は夫のシフトを手帳に書き込んで、鍼灸接骨院の予約と夜飲みの予約を(笑)。
そして父の死をしらなくて心配してくださった方にも直接話す勇気がなくお手紙を書こうと思います。

なかなか娘としての役割を捨てるなんてことはできないし、休むことや自分の時間をと思っていても、やはりどこか頭の片隅でリソースを取っている。言葉としてわかっていてもどうしようもなくて難しいなと感じます。私が訴えているのに私が実はちゃんとできてなかった。情けないなー。

母のことを父と弟と3人で。父がいなくなり2人で。でも近くに住んでいる私が頑張らなきゃいけないからひとりで。知らず知らずに重荷に。
そんなことに改めて気づきました。

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