出会った日から、母とふたり裸になって、こころをお風呂に入れた日まで。
きみが我が家に来たのは15年前。
まっくろでまんまるな目と鼻と、
首にある真っ白なひとすじの毛は
ずっと変わらず、来たときのまんま。
「犬を飼いたい」
私が9歳のときにお母さんに伝えた。
記憶のかぎりでは、誕生日以外で
「これがほしい!」
と親に希望を伝えたことはなかったと思う。
謙虚だとか、物欲がないわけではないけど、
何が本当に欲しい物なのか分からなかった。
今でもそれは変わらないけど。
だけど「犬を飼いたい」という気持ちだけは、絶対に曲げられなかった。
実は最初、犬を飼うことにお父さんは反対していた。たぶん、お別れの辛さを知っていたからだと思う。
一度意思が固まると曲げるのは難しいお父さんだから、ただ頼むだけじゃだめなのは分かってた。
私は、自分ができる限りの頼み方、ということで、人生で初めての(最後にしたい)土下座をして、思いの丈を伝えた。
頑固と頑固のぶつかり合いは、最終的に私が勝った。
ちょうどお母さんの友人の知り合いが、ミニチュアダックスフンドを飼っていてこどもを産んだらしかった。
そのうちの1匹が、こころ、きみ。
全てのタイミングが重なって、
きみを我が家に迎え入れることになった。
はじめてうちに来たときのことを覚えてる。
学校が終わって、走って家に帰って。
「まだ不安だろうから今はほっときなさい」
とお母さんに言われたのに、
どうしても近づきたくてたまらなかった。
早く覚えてもらいたくて、何度も自己紹介をした。
まっくろでまんまるな目と鼻と、
首にある真っ白なひとすじの毛。
短い足で家中を探検してた。
それから一緒に成長したね。
きみにしか話していない悩みもあったし、
きみにしか見せない涙もあった。
よく見る感動的な動画みたいに、
私の頬に伝う涙をなめてくれるほど、
きみは気を遣えないタイプだったけど。
傍にいてくれるだけで救われた瞬間が何度もあったよ。
きみが我が家に来て10年目の春に、
私は東京へ行くことになった。
新しい世界へ行くことはワクワクしていたけど、きみと離れるのは本当につらかった。
帰省すると毎回、大きな声でワンワン吠えるのと、高い声でクンクン甘えるのを交互にして、ちぎれそうなくらいしっぽを振って喜んでくれた。
わたしも自然と普段より2オクターブ高い声できみの名前を呼んで、じゃれ合った。
今回が初めてだった。
静かに迎えてくれたのは。
体を持ち上げることもできず、弱々しく目を開いて。
閉じそうで閉じない目。
風に吹かれる中、消えそうで消えない
小さな蝋燭の火みたいだった。
たまに引きつけのようにビクッとなる体を、
大丈夫だよって言いながら静かに撫でた。
わたしもきみも全然、大丈夫じゃないのに。
いつも通りのやわらかい毛。
だけど、知っているぬくもりじゃない。
明らかに、足りない。
ここ数日間は点滴生活で全然食べていないはずなのに、お腹は膨れていた。
お腹にある腫瘍が本当に憎い。
「こころを囲んで、みんなで寝ようか」
ふと、お母さんが言った。
真っ暗な中、きみをたくさん撫でた。
撫でるのをやめるとしっぽを振った。
また撫でると、しっぽをふるのをやめた。
撫でてほしかったんだね。
ちゃんと伝えてくれて嬉しかった。
いつだって私たちは、言葉以上のものでつながっていたんだもんね。
きみが眠りに落ちるまで撫でていようと思ったけど、いつのまにか眠ってしまっていた。
きみに会いにくるまでの1週間は、
いつもより余計に眠れなかったから、
顔を見れて安心してしまったみたい。
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1週間くらい前。
食いしん坊だったきみがごはんを食べないから、お母さんがかかりつけの病院へ連れてった。
9月23日のこと。
結果、肝臓に腫瘍があることが分かった。
先生は「あと2週間」と、お母さんに告げた。
お母さんからそのことを聞いたときは、突然すぎてとても受け入れられなかった。
だって、半年前に会ったときは老犬らしい衰えこそあったけど、元気だったじゃない。
連絡を受けた翌週の金曜日、
10月2日に帰ることにした。
帰ってからはできるかぎりきみのそばにいたかったから、リモートワークに心底感謝した。
宣告を受けてから帰省するまで毎日、お母さんはきみの様子を送ってくれた。
日に日に、目に見えて弱っていく様子は、きみとっての1日という時間がどれほど長いかを教えた。
「どうか、少しでも長く」
毎晩心の中でお祈りをして寝た。
夜の散歩中に、神社があればお参りをした。
こんなときばかり祈るなと、神様は怒るかもしれない。
だから、生きているきみに会えた時は、
本当に本当に嬉しかった。
きみがどんな状態になっていても泣かないと決めていたのに、つらそうなきみを見たら我慢できなかった。
久しぶりに会えたのに不安にさせてごめんね。
少しは見えているらしい目の中に、私が写っていて、わたしだと分かってくれているようで、いや絶対に分かってくれていて嬉しかった。
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みんなで眠った晩の翌日、10月3日に、
きみは永遠に眠ってしまった。
日が落ち始める16時過ぎのこと。
一緒に横になって撫でていたら突然、
いつもより長い痙攣がおこって、
止んだと同時に遠くを見つめたまま、
動かなくなってしまった。
消えまいとたゆたっていた命の蝋燭が、
ついに消えた瞬間だった。
こわかっただろう。
びっくりしただろう。
痛かっただろう。
近くにいたのに何もできなかった。
家族みんな、大きな声できみの名を呼んだ。
お別れがこんなに早く、しかも突然来るなんて信じられなくて、何も考えられず、ただひたすら名前を呼んだ。
時間をかけて伝えたいことがたくさんあったのに。
きみのことが好きすぎて、かわいすぎて、
寝てる時にちょっかいかけてごめんね。
あごをかかれるのが大好きだったね。
きみが撫でてほしいところ、
目を合わせれば手に取るように分かったよ。
かくれんぼも覚えて一緒に遊んだね。
犬なんだからにおいで探せばいいのに、
目でキョロキョロ探す姿がいとおしかった。
大好物のりんごを噛んでるときの
「しゃクしゃク」って音が忘れられないよ。
世界で1番りんごを美味しそうに食べるんだ。
ピアノの練習をしていたら、
椅子の下に来て眠ってたね。
へたくそなのに、聴いてくれてありがとう。
私の部屋に何度もおもらしして喧嘩した。
だって他の部屋にはせずに、
私の部屋にばかりするから。
東京で自動車免許を取ったとき、
1番にきみを助手席に乗せたいと思った。
帰省する度ドライブに付き合ってくれたね。
中学生の職業体験でトリマーを選んだ。
お風呂の入れ方を教えてもらって、
そこからきみをお風呂にいれるのは
私の役割になった。
きみは嫌がったけど、
私は幸せな時間だったよ。
春には家の近所の桜並木を散歩したね。
足のまわりの毛がふさふさだから、
帰るころにはたくさん葉っぱがついてて、
それさえも可愛くてたまらなかった。
つらいのに、最後に会う時間をつくるために
頑張ってくれてありがとう。
我が家にきてくれて、
たくさんの幸せを分かち合ってくれて、
本当にありがとう。
大切な大切な、9歳下の妹。
一生、忘れない。愛してるよ、こころ。
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きみとの別れの瞬間に聞こえていた音は
GReeeeNの「星影のエール」。
バラエティ番組の間抜けな笑い声じゃなくてよかった、なんて思いながら、撫で続けていた。
きみを送り出すお葬式が、翌日に決まった。
きれいな体で送り出すためにきみをお風呂に入れた。
お母さんとふたり、裸になって。
冷たくなり始めていた体が、お湯で温かくなってぬくもりと錯覚させた。
丁寧にブラッシングして乾かして、ふわふわになった。死後硬直で固まりつつある体とは対称に、柔らかな毛。
嫌がるから放置してしまっていた、ところどころある小さな毛玉も、おとなしいからきれいに解くことができた。
その日は涙が尽きるまでずっと泣いていた。
どうしようもなく、涙が止まらなかった。
「どうして早く気づいてあげられなかったんだろう」
とお母さんがつぶやいていた。
実家を離れて5年。
きみのいない生活には慣れたけど、
きみがいない世界は信じられない。
この家には、きみの影が残りすぎている。
フローリングと爪がこすれて、
歩くたびにカチャカチャ鳴る足音。
食卓でご飯を食べていると、
足にふっと触れてくる鼻先の感触。
お出かけするときにすっぽりと入っていた、
お散歩バッグのにおい。
少し固いベッドの中で分け合った、
朝方のぬくもり。
色濃い思い出より、何気ない思い出が形作るきみを何度も感じてつらかった。感じるたびに、きみがいない現実を突きつけられた。
翌日、山の奥にあるペット葬儀屋さんで、
きみと2度目のお別れをした。
きみに似合うお花と、たくさんの写真、
あそんだおもちゃ、大好物だった食べ物と、
食べさせたかったのに叶わなかった食べ物。
伝えきれなかった言葉が形になって
ちいさな棺にたくさん詰め込まれた。
火葬のスイッチは、お母さんとお父さんが押した。
黒くて大きい人工的な機械の中に、
きみは吸い込まれていった。
本当は大声で嫌だと叫びたかった。
間もなく煙突から煙になったきみが、あらわれた。煙になったきみ?いまだに信じられない。
90分ほどして綺麗に整えられた骨が運ばれてきた。これは、きみだった。
担当してくれたお兄さんが、丁寧に骨の説明をしてくれた。
きみに触れるたびに「ごめんね、こころちゃん」とつぶやいていた。
優しい人でよかった。
ひとつひとつが本当に小さくて。
見たことない姿のきみだったけど、
抱きしめたいくらい、いとおしかった。
肉体を愛していたわけじゃない。
きみのこころを、すべてを愛していた。
だからこれからも愛し続けることができる。
大丈夫。大丈夫。
と自分に言い聞かせて一瞬楽になった気がしたけど、
そんなの綺麗ごとだ。信じたくない。
帰ってきてほしい。あいたい。
という気持ちが消えるわけではなくて、
涙は止まらなかった。
こんなに小さな体で、
宇宙より大きな愛をくれていたのかと驚きもした。宇宙の大きさなんて知らないけど、つまりは、測りきれないくらいの愛。
みんなでゆっくりと収骨した。
こんな小さな足で歩いてたんだね、
なんて、きみについて話しながら。
足と指としっぽの小さな骨だけ、
カプセルに入れてもらうことにした。
しっぽの骨を掌に乗せたとき、
これまでもう何度も謝り続けてきたことを
心の中でもう一度、謝った。
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まだ我が家に来たばかりで、
私も9歳かそこらのとき。
きみに気づかなくて、ドアを閉めようとした。
足元から「キャン!」と聞いたことない声できみが鳴いた。どうやらしっぽを挟んでしまったようだった。
はじめて聞く声に驚いて、怖くなって、
泣きながら謝った。
それから数日たって、
ふとしっぽを見ると先っぽが若干曲がっている。これは、もしかして、あのときの…。
一般的なミニチュアダックスフンドのしっぽは毛がふさふさのはずなんだけど、きみは毛が全然生えてないから、形がよくわかる。
すでに痛がっているわけではなかったから、
そのまま誰にも言えずじまいで。
あのときは本当にごめんね。
これで謝るのは最後にさせてね。
これからきみに語りかけるとき、ごめんねから始めるとうまく話せない気がして。
自由になったきみを、
これから色々なところに散歩に連れていくから。どうか許してほしい。
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きみが旅立ってから、今日でちょうど1週間になる。一昨日、台風で飛行機が飛ばなくなる前に東京に帰ってきた。
小さなカプセルにいれたきみの骨と、
写真とお花を東京の家にも飾ってる。
狭くて、ちゃんとしたスペースが作れない。
きみとの写真や、流れてくる犬の動画を見るだけでも涙が出てしまう毎日だけど、しっかりしなきゃと思う。
葬儀屋のお兄さんが、
「亡くされて今は本当にお辛いと思いますが、みなさんの生活や、ご自身のことをどうか大切になさってくださいね。そうでないと、誰も幸せになりません。こころちゃんも。」と言っていた。
人生のうちにあと何度「死の別れ」という悲しみを乗り越えなくてはならないのだろう。考えると気が遠くなるし、頭がおかしくなりそうだ。
だけどあんなに頑張って戦っていたきみの姿を思い出すと、私も頑張らないわけにはいかない、という気持ちになる。
そのことを教えるために、きみは最後の力を振り絞って帰ってくるのを待っててくれていたのだろうか。
もしそうだとしたら、頭があがらない。
さっき9歳下の妹、
なんて書いたけどきみは人生と愛の先輩だ。
私は生きていかなきゃいけない。
もっと広いスペースに、もっと大きくて豪華なお花を、きみの横に添えられるように頑張るよ。
またね。こころ。
2020/10/10