三行塾に参加して|「文章を書くということ」
近藤康太郎さんの「三行塾」に参加した。今日のテーマは「文章とはなにか」。
コロナでよかったことがあるとしたら、「オンラインで参加できることが増えた」ことだと思う。この講座も、オンラインでの出席も可、というハイブリッド開催だったから、大阪在住でなかなか東京までは行けない、というわたしも参加できた。
さて、ライターの基本の基本、「起承転結」。言わずもがな、「起」はフック。人を立ち止まらせ、「なになに?」と文章を読ませる仕掛け。
新聞を例にとって、説明は続く。新聞は「起」と「承」だけのことがほとんどだ、と。そして、その二つがあれば文章は一応成り立つ。
でも。それはおもしろい文章かと聞かれたら、面白くはない。いま流行りのAIにだって書けるだろう。
では、人にしか書けない文章とはなにか。AIに取って代わられないライターであり続けるためには何が必要なのか。
それは「転」があるかどうかだと近藤先生は言う。「転がっている」「ああ、そう来たか」と思わせる、なにか。それがなければ文章ではない。
俳句に似ている、と思いながら聴いていた。
わたしは子供の頃から俳句や短歌が好きで、特に俳句は、祖母がずっと趣味でやっていたこともあり、親しむ機会があった。
俳句も、世界一短いエッセーだと言われる。五・七・五・のたった17音の中に詰め込まれたエッセー。
俳句も、初めの数語で人をハッとさせる。基本的な型ではたいてい、そのフックは季語になっている。そして、次に続く言葉はまったくその季語から離れたイメージだったり、トピックだったりする。
「とりあわせ」という。
文章もこれの延長なのだなと思った。フックで人をまずハッとさせて立ち止まらせ、その後ちょっと説明があったりなかったりするが、その後「~とかけて」とばかりに、話は展開する。つまり「転がる」のだ。
近藤先生はそういえば、「あえて型にはめてみると、自分が本当は何が書きたいのかがわかる」とも言っていた。
型にはまってみる。俳句にも、型がある。型を崩して、あえて「型無し」の、不定形の句を作れるようになるのは、基本の型ができるようになってから。名人といわれる人たちでもみんな初めはそこからだ。
なるほど、ならばわかった(と思う、たぶん)。先生はいくつかの文章の「型」も教えてくれた。それにあてはめながら、どこに「転」があるのかを考え続けるとだんだんわかってくるよ、とも。
書くことが好きだ。それを曲がりなりにも仕事にしている。でも、いまのままでは「ライスワーク」だ。これを、「ライフワーク」にしていくために、いまいちど、きちんと「基本の型」を身につけなければ。
第一日目にして、すっごく濃い内容だった三行塾。いよいよ次の回ではわたしの駄文が添削を受ける。恐ろしいけど、ちょっとワクワクもしている。
わたしの書く文章に、そこに、転はあるんか?