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「可哀想」の向こうにある可能性 #さとゆみエッセイ講座課題:「私を変えたひとこと」
「たっか!」ホームページに並ぶ価格表を見たときに最初に思った。
「HERALBONY」という会社がある。知的障害がある人たちが生み出す作品をアートとして世に出し、「障害者」ではなく「作家」としてその作品を紹介するという会社。
作品にはどれも、そこそこの値段がつけられている。正直ちょっと手が出せないくらい高い。
でもそれらの商品が、名のあるデザイナーの名前で出されたものならたぶん、この値段にも納得するだろう。それならきっとこれは「障害者は価値あるものを生み出せない」という私の偏見と思い込みだ。
HERALBONYの「ブランドストーリー」には会社設立のいきさつについて「自閉症の兄はよく『可哀想』と表現されることがあった。兄がなぜ『可哀想』なのだろうという疑問からこのブランドは始まった」とある。
それを読んだ時に思い出した。
娘が10歳のとき小児がんにかかった。幸い娘は寛解を維持し、成長を続けた。けれど、一緒に治療していた子供たちの中には、亡くなった子が何人もいた。一番仲の良かった子も白血病が再発し、造血幹細胞移植に挑んだものの、移植後の激しいGVHD(移植後宿主病)で亡くなった。8歳だった。
幼くして命を脅かす病にかかり、致死量ギリギリの量の抗がん剤治療と副作用に苦しみ、あげく短い人生を終えた子。辛くも命をとりとめても、障害が残り、同年代の子供たちと同じように走ったり運動したりできなくなった子。
「可哀想」だと思っていた。
ある日、病院の小児臨床心理士さんが私に言った。
「可哀想なんかじゃないですよ」
どういう意味だろう。あの子が可哀想じゃなかったらいったいなんなん?心がざわざわした。心理士さんとその時、そのことについて話した記憶があるけど、なんと言っていたのか全く覚えていない。
いや可哀想やん。回避できるんやったら病気なんて回避できる人生の方がいいに決まってる。障害があるよりない方がいいに決まってる。
HERALBONYを知り、ホームページを読んでいた時に、あの言葉を思い出した。
「可哀想」という言葉は耳障りがいい。でもそれは「善意」を装って、彼らの可能性や能力、存在さえも否定することがある。「可哀想」という言葉で彼らの価値を限定していることはなかったか。
HERALBONYの製品は、私にはちょっと手が届かないくらい高価だ。でもそれは障害を持つ人たちが生み出したものに対する正当な価値だ、とHERALBONYは言う。それを目に見える形で見せてくれる。
いま私は、「可哀想」という言葉を使うことにとても慎重になっている。純粋な同情から出る「可哀想」は否定されてはいけない。心からの同情心は人を動かす力になる。でも「可哀想」ということで、誰かの可能性を低く見積もったり、制限したりする言葉でもある。
「可哀想」の使い方、気を付けないといけないな。
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