贈り物としてコーヒーを淹れる
こんばんは。
友達がある本を貸してくれました。
世の中どこかおかしい。なんだか窮屈だ。そう感じる人は多いと思う。でも、どうしたらなにかが変わるのか、どこから手をつけたらいいのか、さっぱりわからない。国家とか、市場とか、巨大なシステムを前に、ただ立ちつくすしかないのか。(略)この本では、ぼくらの生きる世界がどうやって成り立っているのか、その見取り図を描きながら、その「もやもや」に向き合ってみようと思う。
――「はじめに」より
まだ、一章しか読んでないんですけど、「贈り物と商品の違い」について書かれているところで、なるほどなあと思ったので、ここに残しておこうかと思います
商品交換と贈与を区別しているものは何か?フランスの社会学者ピエール・ブルデュは、その区別をつくりだしているのは、モノのやりとりのあいだに差しはさまれた「時間」だと指摘した。
というところ。なるほど、と思わされました。
先日、ハレマというコミュニティでコーヒーを淹れに行きました。
おいしそうに撮ってくださっててうれしい!
コンビニで安く、はやく、コーヒーが飲める今、わたしは丁寧に時間をかけて淹れるドリップコーヒーにはまっています。
しかも、自分のためではなくて、もちろん自分へのご褒美で淹れることもあるけれど、誰かのためにコーヒーを淹れるのが大好きです。
で、わたしがなにを思ったかというと、「ドリップコーヒーは贈り物なんだ!」ということ
時間をかけて、丁寧にコーヒーを淹れる
時間をかければ、自然と想いもこもって、それは贈り物になる。
わたしが、疲れたり、悲しくなったときに、コンビニのコーヒーではなくて、コイケさんが淹れてくれたコーヒーが飲みたくなるのは、そういうことかあ、となんだか腑に落ちたのでした。(コイケさんとは、表町にあるコーヒー屋さんのマスター)
どんどん便利になって、いろんなことに時間をかけなくなってくる世の中になるかもしれないけれど、わたしは時間をかけて、ドリップコーヒーを淹れ続けたいなあと思ったのでした。
もっとおいしいコーヒーを淹れれるように、修行あるのみ。今朝もお母さんのためにコーヒーを淹れたわたしでした。
ではまた明日ー!
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