最初に乗った乗り物は救急車! 私が生まれた頃の話
私は、あと約1ヶ月と少しで32歳になる。
20代の後半から30代のはじめにかけては病気になったり世の中がコロナ禍になったりいろいろあったけど、今生きてて良かったと思う。
そして、親から聞かされた私が生まれた頃の話から考えると、「よくぞここまで生きてこれた!」とも思っている。(自分で言っちゃう 笑)
盲学校出身の私の周りでは、低体重 (未熟児) で生まれたり大病を患ったりして子供の時に命の危機に瀕した人はそれほど珍しくないけど、私も私でなかなか大変だったのだそう。
最初に乗った乗り物は救急車
私が生まれた時の体重は3200gくらい。平均か、それより少し重いくらい。産声もあげていた。
だから、両親は、私が生まれた直後は障害があるとは気付かなかったという。
だけど、生まれて数日経った頃、病院に毎日面会に来ていた母方の祖母が「この子は、なんでずっと目を閉じているのかね・・・」と、心配そうに言った。
母は女の子を産むのが初めてだったので、ずっと目を閉じている私を診て「女の子は男の子よりおとなしいとか、よく寝ると言われてるからかな?」と思っていたのだが、祖母の指摘を受けて退院前に産婦人科の医師に相談して検査をしてもらうことに。
そこで両親は、娘の目は正常に作られておらずほとんど視力がないこと、心臓にも異常があること、もしかすると他にも障害が見つかるかもしれないこと、すぐに大きな病院に搬送して精密検査を受ける必要があることなどを医師から告げられた。
父の車でお家に帰るはずが、私が最初に乗った乗り物は大きな病院に向かう救急車だった。
今は亡き祖母から聞かされた話によると、母と祖母は2人でとてもたくさん泣いたという。
私の上に兄が2人いるのと、精密検査や難しい手術に対応できる大きな病院が家から通える場所にあったので検査入院はさせず、両親は私を連れて毎日病院に通った。
父が仕事で付き添えない時は、祖父母やおばが母と私に付き添った。
告げられた病名は「ピータープラス症候群」。眼科や小児科の医師にもあまり知られていない病名だった。調べたところ、「ピータース奇形」のほうが一般的みたいなので、今後はそう記載する。
ちなみに障害者手帳にはこの病名は書かれておらず、「先天性の角膜混濁、緑内障、白内障による視覚障害」などと書かれている。
不幸中の幸いというべきか、私はミルクはゆっくり飲むことができていたので心臓の病気はそれほど重くないことがわかり、病院に通う頻度は毎日だったのが、1週間に一度、2週間に一度と徐々に減っていった。ただし心臓の壁に穴が空いているので感染症には気をつけないといけなかった。
そして目の方は、「眼球が小さく白濁がひどいので、おそらく目は見えていない。眼球が弱すぎて手術にも耐えられない」と医師から告げられていた。
また、目は脳に近い部位なのでもう少し大きくなってから知的障害が見つかる可能性もある、とも。
いきなり大きな手術をしたり、命の危機に陥る可能性は減ったものの、両親の心配は尽きなかった。
生まれたばかりの我が子が何回も注射を打たれ、MRIとかCTとか心エコーとか、そういう大掛かりな検査を受けないといけない状況を目の当たりにして、両親は胸が張り裂ける思いだったはず。
赤ちゃんの時のことは、もちろん私自身の記憶にはないが、心は覚えているのかもしれない。大きな病院の待合室で赤ちゃんや小さい子供の泣き声が聞こえるたびに泣きそうになる。そして、(今は痛いけど、どうか生き延びてね) と心の中で応援している。
1歳の誕生日を病院で迎える
再び命の危機が訪れたのは、まもなく1歳になる頃。
感染症にかかり、肺炎を発症した。
小児科クリニックでは対処できないということで、定期検査で通っている大きな病院に入院することになった。
幸い1週間で退院できたが、対処が遅れていたら危なかった。
トンカツで生き延びた説
私が生まれた時から逆算してまだ妊娠に気付くかどうかの初期の頃、母は風邪を引いてしまった。(「はっきりとはわからないけど、風疹とは違うみたい」と母は言っている)
妊娠初期に母体が感染症にかかると赤ちゃんは生まれてこれない可能性も高いのだが、出産時のトラブルはなく私は3000g以上で生まれてきた。なんだかんだ成長し、30年以上生きている。
母は私を妊娠していた時、つわりが酷いはずの時期に無性にトンカツが食べたくなって、そればかり食べていた。「きっと、あんたはトンカツで栄養をとってウイルスに勝ったんだろうね」と話す。
母のお腹の中にいた時の私は、「お母さん、なんか栄養があるもの取って!ウイルスにやられそう!肉食べてちょうだい、肉!!」と要求していたのかもしれない。
私の体は決して丈夫ではないけど、生き延びてる時点でもともとの生命力と運は強い子供だったんだと思う。
そして、豚さんにも感謝しないといけない。
この続きは、気が向いたらまた別の記事に書こうと思う。
私は、障害を持つ子のお手本になれる人間では決してないけれど、とりあえず、今生きてて良かったと思っていることは伝えておきたい。